強く生き続けたいからだ


「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」を読んで。


 生徒に書かせた文章の中に、"私は「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という言葉が大嫌いだ"という一節があった。その子の家は、ともに同居している祖母が曽祖母を介助するという典型的な老老介護の家庭だが、本人はそれを当然のこととして受け入れている。


 たしかに、「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という言葉には、高齢者や障碍者を排除するような響きがある。ナチズムの臭いを感じる人もいるだろう。


私も「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という言葉は嫌いだ。だが、高齢者や障碍者を排除するような響きがあるとは思ってはいなかった。ただ、高齢者だろうが障碍者だろうが、健全な精神を持っている者もいるだろうがそうではない者もいるし、健全な者であっても健全な精神を持っている者もいるだろうが不健全な精神しか持っていない者もいるわけだ。それもあり、私は「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という言葉は受け入れ難い言葉であると思っていた。それは今でも同じである。しかし、この記事では、その言葉がその様に断定しているわけではない事が書かれている。


 この言葉の出典は、古代ローマのユウェナーリスという風刺詩人の詩の一節にあるらしい。ところが、ユウェナーリスの原詩は「健全なる肉体に健全なる精神が宿るように祈りなさい」というものである。当時、ローマは爛熟期を迎えており、上流の人々はひたすら美しい肉体を求めることに熱中していた。ユウェナーリスは、このような風潮を快く思わず、そんなことは滅多にないでしょうけどという皮肉を込めながら、それならせいぜい健全なる肉体に健全なる精神が宿るように神に祈りなさいと言ったというのが本当のところだという。


これならば私にも受け入れ易い。


健全でなくとも生きていけるとは言え、矢張り健全な肉体の方が生命体としては生き残る可能性は高い。己の落ち度ではなくとか、生まれながらにしてといった具合で、健全な肉体を得る事が出来なかった方を蔑ろにするつもりはないが、私は出来れば肉体的にも健全でありたいと思っている。それもあり、不健全にならぬように気を付けて生活をしているつもりだ。私は肉体的に不調になると本当に不健全な考えしか出来ないようなのだ。私が病気になってしまうのは世の中が悪い、誰某が悪いなどと理不尽な事を言い出すのでな。(苦笑)
だがしかし、体調が不調であっても、私以外の方は世界や他人を呪う事はないのだろうか? 全ての方ではないだろうが、私の知る限りでは、体調が崩れて病気になってしまうと、全てを呪わしく思ってしまう傾向があるように思える。だから「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という言葉は嫌いでも、「健全なる精神を宿らせる為なら私は健全になろう」と願う。私は健全でありたい。健全であると信じたい。私は強く生き続けたいからな。