世界に許された存在


「ポメラにあん - 「で、みちアキはどうするの?」」を読んで。


で、気がつくと、ポメラのなかに書きかけのエントリが5個も6個もたまっていたわけです。「宗教なしに―」もそんな感じで、7割くらい書いたところで1ヶ月ばかり放置されていました。それをなぜいま仕上げたのか? 他の考え事をしているうちに、「宗教なしに―」の“解”に近いものが見つかってしまった、ような気がしたからです。つまり、そちらが「うまくいった」ら、エントリ1本大幅書き換えorボツにしなくてはならないかもしれない。それはもったいないというせこい気持ちが働いて、意識を1ヶ月前に戻して急いで仕上げた、というわけです。なのであのエントリには続きがあります。まだ書きかけでまとまってませんが。とか言ってるうちにまた放置フェーズに入ったりして。


はてなブックマークを一時期公開していた時、いずれ記事にしようと思ってブックマークをしていた記事を削除した。私が誰のどの記事を言及しようとしていたかを他人に知られたくなかったのが理由なのだが、中には随分と放置してしまっていたものもあり、良い機会なのでその記事で自分語りをすることを完全に諦める事にしたのだ。michiaki氏のように書きかけの記事は私にはなかったし、今でも書きかけという形では記事は書かない。読んでその瞬間に書く。そういった書き方を私はしている。そうでないと己が納得する記事が私には書けないようだ。だが、実は全く書きかけの記事がなかったというわけではない。過去に幾つかあったのだが、その全てが納得のいかないものになってしまい、破棄してしまった。


michiaki氏の言う「“解”に近いものが見つかる」という状態は私にもある。勿論、その「解」は他人にとっての「解」ではなく、自分の考えに一番しっくりくるというものである。だから、その「解」が他人には理解出来なかったり、受け入れられなかったりする事もよくある事。それは私もよく理解しているし、michiaki氏も私と同じなのではないかと思っている。時には己の「解」で攻撃されてしまう事もあろう。だが、michiaki氏は例え酷く攻撃されたとしても「無難にまとまってしまった - 「で、みちアキはどうするの?」」を読む限りでは、攻撃してくる相手も許すのだろうな。
私は「許さない事が相手への救いに繋がる」と言った。だが、私の本質はmichiaki氏と同じなのだよ。同じなのだが、一つだけ違う。私にはたった一人許せない者が居るのだ。それは誰かわかるか?


許せないのは己自身。


わかるだろうか、未来永劫、己を許せぬという気持ちが。書けば書くほど私は己を許せなくなる。私が書き出した事は許されざる事だったのではないかと。書くことは止めてしまうべきだったのではないかと。私が書いた事で不幸になった人が居るという事実がある限り、私は書き出した己自身を許せない自分を見出してしまうのだ。それが私の「解」だった。そして、たとえ私は私を許せたとしても、私は私から離れていく事は出来ぬ。michiaki氏のように許しつつ離れる事が私には出来ぬのだから、だとしたら、私は決して私自身を許す事は出来ないという事になるよな。では、私は如何すれば救われるのだろうか。尤も、私は救われたいとは思っていないのかもしれぬ。だが、もしかしたら、そんな私を救うのが「神」なのかもしれない。つまり、私がこうやって此処に存在している事自体が許された証拠なのだという事で。世界が私の存在を許してくれているという事、その事が答えなのかもしれない。


【追記】トラックバックを頂いた。michiaki氏は「世界は大丈夫だ」そして、もうお一方「許されなくては生きていけないのか?」とcambrian氏からも。


私は自分を許せないと言った。そして、michiaki氏は私が死なない事は私が自分を許しているからだと言っている。それもまた真実であり、cambrian氏の言われるように許されなくても生き続ける事もまた真実なのではないかと思っているよ。だが、私は、自分を許されたのだと思い込まないと生きてはいけない人間のようだ。恐らく、私は自身を許している、もしくは私を心の支えにしてくれている人が私を許してくれて、私はそれを感じ取っているから生き続けられるのかもしれないな。ただ、それは私がそう感じるだけであり、本当は誰も私を許してくれているわけではないのかもしれぬ。私にはそれを証明する事は出来ない。全ては私の妄想でしかないのかもしれないのだ。だがしかし、私はその妄想を信じてしまう心を持っている。そういうことで、私ももしかしたら心理的に不健全なのかもしれない。


私が許されているか如何か誰にもわからぬように、cambrian氏も許されていないとは誰にもわからない。とすれば、言えないのではないかな、自分は許されたことが一度もないとは。たとえば私やmichiaki氏が「許そう」と本気で言ったとしても、それは信じては貰えまい。それは氏の心の問題であるからだ。後はもう「あなたは許されているのだよ」という言葉を当人が心の問題を克服して信じられるようになるか如何か、それだけでしかない。それをどうしても信じられないとしたらどうしようもないよな。ただ、私は言うだけだ。私が信じる「生きている、それが答えなのだよ」とな。だから、cambrian氏は生きているのは、氏が信じられなくとも許されているんだよと。どんなに氏が信じられぬとしても、私は私の信念に基づいてそう言うしかない。


あなたは許されているんだよ、と。