恨まれる側も痛い人なのかもしれない


「synchronicity 薄紅色の花」「synchronicity 痛い人だと思っていたが」を読んで。


昔、ある男を愛した女がいた。彼女にとって男の存在は全てで、その男以外は考えられないとまで思い詰めていた。だが、男は自分への想いを彼女の心から消したかった。消したかったが、彼女の心に止めを刺す事は彼女の命まで握り潰してしまう事にも繋がる危険性があり、如何しても彼女の心から男の存在を消す行為に及ぶ事が出来なかった。


 たぶんこういうのは理解されにくいだろう。自分の感情のすべてをさらけ出せる相手、と言えば聞こえはいいかもしれないが。

 しかし痛い痛いと思っていたが、あたしはここまで痛い人だったんだな。


私の知っている「彼女」も「彼」にしか全ての感情を曝け出せなかった。自分を決して愛そうとはしない「彼」に、愛も憎しみも悲しみも辛さも希望も絶望も全て全て曝け出して悲鳴をあげ続けた。それを彼は甘んじて受け入れていた。自分に向けられる刃がまだある限り、彼女は生き続けてくれるだろうと信じて。


恨んで欲しかったのだ、彼は。そこに愛や希望が存在しなくてもいい。憎悪でもいい、自分に恨みや憎悪をぶつける事で、君が生きていくのならば、彼は喜んで恨まれただろう。君に生きて欲しかったのだから、彼は。それが生きる力になると彼は信じたのだから。


とある男女の昔話だよ。男も女も今でも生きていればいいと、心からそう願っている。


【追記】hirika氏が「希望」という記事を書いて下さった。私の書いた記事で少しは救われたようで良かったと思っているよ。こんな私でも誰かを救えるのだな。私の方こそ救われたような気がする。記事を書いて下さって有難う。