私のような人でなしでも本当に救われるのだろうか

今から20数年前のことだったろうか、私もインターネットというものに出会い、掲示板等で遠くの見知らぬ人と会話を楽しみ、そして、ホームページを作成して思う存分、自分語りをしたものだったな。友人達の綴った小説を読ませてもらっては感想を書き、自分の好きなものについて語り合い、こんな日々が10年20年と続くのだと信じて疑わなかった。互いに、何時かこの頃の事を肴にして語り合おうと約束しては眠りについたものだった。だがしかし、その約束は一つも果たされたことはない。あの頃に知り合った友人と思っていた人々は誰一人として此処にはもういないからだ。

 

昔は良かった。

 

そんなふうに本当は言いたくないのだがね。もっとずっと幼い頃は、何時か遠い未来に「子供の頃は良かったなあ」と言うのかもしれないなと思ったものだったが、今はそんなふうには思えない。確かに、父や母は元気に生きていて、他にも何人かは若くして亡くなった友人も生きていたが、それでも「あの頃は良かった」とは言いたくないのだよ。何れ、私も近いうちに其方側に旅立つ。それを思うと昔を懐かしんでいる暇はないなと思うからだ。

 


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友人の小説にこの人と同名の人物が出てきたな。その小説は友人が高校生の頃に書いたものだそうだが、もしかしたら当時、彼女のファンだったのかもしれぬ。実に友人の好みな女性だったから、彼女をモデルにしたのかもしれない。聞いたとしても答えてはくれぬとは思うがな。

 

祈れば本当に救われるのか?

私は神を信じない。

だが、彼女が天に召されたと知った時、ああ、神は本当にいるのかもしれぬと思ったよ。

彼女の歌声を愛した神によって天へと連れ去られたのだろうとな。

恐らく私は救われぬ。

彼女を連れ去った存在を憎んでいるからだ。

そんな私でも本当に救われるのだろうか。

問いかけても答えはない。

其処に辿り着いた時に聞いてみることにしよう。

私のような人でなしでも救われるのか、と。

 

 

【追記】id:yas-toro氏が星をつけてくださった。ありがとう。私は毎年飽きもせずに御神籤を引くのだが、近年では大吉を引けばその年は悪くなり、凶を引けばそれほど悪くないという傾向がある。なので、恐らくだが、どんなものを引こうともその年の命運は自身にかかっているのかもしれないと思うようになったよ。つまり、気にするなといったところか。信じるも信じないも自分次第、とな。ところで、私も神に思う所はある。神は乗り越えられない試練は与えないとは言うが、私はそうは思わないのだ。たとえそれが本当だったとしても、試練を与えられた人を見続けてきた者にとっては「ふざけたことをぬかすな」と言いたい。時に乗り越えられずに最悪の選択をしてしまうこともあるよな。私はそれを身を持って知っている。乗り越えられない試練はないだと? ならば、最悪の選択をしてしまったその人達も「乗り越えられたのだ」と言うのか? 冗談じゃない。何が乗り越えられない試練はない、だ。最悪の選択、例えば自死とか犯罪とか、そういった選択をしてしまった人も「乗り越えられたのだ」ということなのか? 或いは選択ではなく、不治の病にかかって闘病することもその人にとっての試練とも言えるよな。それでも亡くなってしまうこともある。それも乗り越えられたと言うのか?

 

神は乗り越えられない試練は与えないのではなかったのか?

 

だから、私は神を憎む。ということで、何時か神を一緒に殴りにいこう。