悩みは人を成長させる


これまでに色々な方の書かれたものを取り上げて書いてきたのだが、中には取り上げて書かれたくなかったという人もいただろう。初心者はまずは限定の場所で修行をしてから公の場所で書くようにしたほうがいいという話も聞くが、それは確かにそうではあると思いつつも、それで本当にリテラシーが学べるのだろうかと私は思っている。私のように何度も痛い目を遭ってもリテラシーは学べなかったと痛感している。だからこそ、誰かの書いたものを取り上げて書いてしまう。それは恐らく限定の場所で書いてから公に出てきたとしても同じことだったろう。限定の場所は結局は狭い空間でしかない。その様な場所でリテラシーなど本当に身につくのだろうか。私にはどうも信じられないのだがな。

昔は私も多くの時間をネットに費やしていた。人との繋がりが楽しかった。多くの人と付き合っていたわけではないが、興味深い会話を楽しめたものだ。今でもそれは変わりない。ただ、昔ほどは私の話に付き合ってくれる人はいなくなったのだが。だが、その少ない関係のおかげでこんな私でもリテラシーは身についていったのではないかと信じたい。多少は身についたのではないかと。価値観の違いから大喧嘩をしたこともある。大手掲示板で叩かれた記憶もある。それはすべて公の場所でのやり取りで勃発したものだ。喧嘩をし、叩かれ、ボロボロな精神状態になったこともあるが、私は後悔はしていない。私と似たような経験をしてネットから離れてしまった人も何人か知っているが、その人達も恐らくこっそりこの世界に戻ってきているだろう。勿論、完全に嫌気が差してやめてしまった者もいるだろうが、私は戻ってきてしまう者の方が多いのではないかと思っているよ。

そんな人達は激しい感情表現をネット上で見せる事が多かったが、その人達は自分たちがやっている事はちゃんと理解していた。全てをネットで見せていたわけでもない。それは自分の一部に過ぎないとわかっていた。それにも関わらず、否定されれば酷く傷ついたものだったな。これは本当の自分じゃないとわかっていても、それでも自分に向けられた否定はどんな人間でも心を抉られる。傷つかないと豪語している人がいたとしても、私は信じない。

それでも隠すことが出来ない。否定されて心を抉られても、人と繋がっていたいから何かを発信し続ける。それにはその人その人の望みがあるからでもあるのだが、ある人は注目されたいという気持ちがあって、注目されるのではという気持ちからいろいろな発信をして何とか注目をもらえたということもある。他人は受けだけを狙ったもので繋がりが生まれるわけはないと言うだろうが、それは受けた後のその人の態度にもよるだろう。チャンスを逃さずフォローすれば人と人のつながりは堅固なものとなるだろうしな。だから、私はネット上でいわゆる釣りをすることを否定はしない。ただ、釣っただけで後は知らん顔というのはいただけないとは思っているが。どのようなきっかけでもきっかけはきっかけだ。そのきっかけがどんなものだったとしても、何らかの信頼は努力で得られるものだと思っているよ。

そうは言っても、なかなか信頼は得られないのが世の常だ。そして、人は悩む。

だが、人は悩んで大きくなるのだ。悩んで悩んで何とかそこから脱しようとして考え抜いて、学んで、成長していくものなんだと私は考える。簡単に「悩むな」とは言われたくないし、また軽々しく言うべき言葉でもないと私は思っている。勿論「悩むな」は優しさなのだろう。だから「悩むな」という人は優しく、私のように「大いに悩め」という者は冷たいのだ。だが、私は優しさだけでは生きてはいけないと知った時から、こう考えるようになったのだよ。悩め、と。人は悩んでいくべきなんだよ。


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「つーか、気にしないで、と言うほうがちょっと無理かな。この辺を原動力にブログ更新してる人ってのもかなり多いはず。」


関連記事に書かれていたこの言葉には全面的に同意する。人よ、大いに悩め。そして大いに気にしろ。それはきっと自分の為になる。私はそう思っている。