善なる嘘に埋もれて


michiaki氏の記事にこのような記述が書かれてあった。


「"善なる嘘"とは、永井さん曰く、「事実に反している(ことは知っている)が、それが事実であるかのように語ることで世の中がよくなるような言説のこと」だそうです。"よくなるような"であって、"よくなる"ではない場合もあることが含意されてますよね。この問題はたとえば、ガンで余命幾ばくもない人にそれを告知せず、頑張って治しましょう、と告げることにどこか似ている。それはいいことなのか。そうだとしたら、誰にとっていいことなのか。」


記事を読んだ印象では、その「善なる嘘」を氏は良いことのようには思っていないように私は思ったのだが如何だろうか。

善なる嘘は私も何度もついてきた。その嘘が真実となるように願いを込めて。勿論、嘘が真実になることは滅多にないだろう。それはしばしば奇跡と呼ばれるものだからだ。奇跡とは滅多に起きるものではないからな。だから、私の人生で一度も起きないことかもしれない。だが、奇跡は起きる事もある。善なる嘘で治らないと言われていた病気が万に一つにも治る奇跡が起きないとも限らないのならば、私はその僅かな希望に賭けたい。その為の善なる嘘なら私は躊躇いもなくつくだろう。嘘が真実に絶対に変わらないとは誰にも言えぬのだから。

私はこれからも善なる嘘をついていくよ。それは確かに私の為でもあるが、その人の為でもある。そして、善なる嘘は絶対に相手に話してはいけない。その人の為にはな。絶対に話さないのが善なる嘘なんだよ。墓場まで持っていく嘘なんだよ。

将来、私の亡骸が納まる棺には、夥しい善なる嘘も一緒に納まる事だろう。そんな善なる嘘に埋もれて私は眠り続けるだろう。愛しい人の夢を見ながら。永遠に眠ることだろう。