綺麗事でも信じられる世界を望んでいるよ


「信じたい。変わりたい。 - はてな匿名ダイアリー」を読んで。


 それでもいつのまにかやってくるこの意識を、この感情を、この罪悪感を、この「信じられない」という自分を、どうやって追いやったらいいか。それが苦しいから、どうやって抜け出せばいいのかを苦しんでいるのだ。他人の現状を見て「こういうことなのだろうな」と書くことなど、誰にでもできる。そんなことは、苦しんでいる自分が一番分かっている。はたから「そうなのである」なんてことを言われなくても、分かっている。何度も、見つめた。何度も、対峙した。それでも抜け出せないから、だから苦しいのに。それなのに、冷静な目でそんなふうに記述しないで。書いてもらっても、何もうれしくない。そんなことは書かれなくたって分かってる。分かっているからつらいのに。つらいけどどうしたらいいか分からないから、だからつらいのに。


一つだけ言わせて貰えれば、罪悪感や様々な感情は持っていれば辛いだろうが、無くしてしまっては駄目だと思うよ。それがあるからこそ、筆者は人間らしいと言えるし、私や恐らく他の人達も筆者を愛しく思うだろう。たとえ、筆者がどういった人間か分からなくても、それでもこの文章だけで愛しく思える。何も言わずに抱き締めてあげたくなるほどに。いいかい、抜け出せなくてもいい。抜け出せない筆者だからこそ、私は筆者に興味を持った。同じ苦しみを抱いた者同士としての興味をな。今の私は抜け出してしまったので、人間的な魅力は恐らくなくなってしまっているだろうが。こんな抜け殻のような人間には筆者はなりたくないと思うだろう? それとも、それでもいいから抜け殻のような感情の無い人間になりたいと思うのだろうか。だが、そんな人間になってしまってから後悔してももう遅い。人間らしい生き方など出来なくなる。それでもいいと言うのなら、私ももう何も言わないが。
私は「そうなのである」と達観したような物言いをする人間だからな。筆者にとってはさぞかし憎々しい姿として映っているかもしれない。(笑)



この歌は綺麗事だと筆者は言うかもしれない。私も綺麗事を嫌悪する事もある。しかし、そんな私でも綺麗事が通じない世界を悲しく思う。綺麗事でも信じられる世界になって欲しいとも思っているよ。それはこの歌が私を強く支えた時代があったからだ。たとえ安い人間だと言われてもいい。私はシンプルなテーマで泣ける自分を誇りに思う。時には馬鹿みたいに誰かを何かを我武者羅に信じてしまう自分を愛しく思う。


もし筆者が誰かを傷付ける事で傷付くと言うのなら、私を傷付けてくれてもいい。他の誰かを傷付けてしまいそうになったら、私一人を傷付ければいい。私は傷付けられても傷付かないから。