自らの内の感情はそのままにして楽しめればいい


「3307.txt-blog - 生きてて良かったという気持ちが難しくてよく分からないのだけど。」を読んで。


 来月30歳になります。現役で頑張れるのが60歳までだとすると、僕は折り返し地点にさしかかりました。僕の大事な人たちに「生きてて良かった!」と思ってもらえるような瞬間を積み重ね、30年後満足して僕の60年を振り返り、「生きるだけ生きたから次は死と対峙しよう」と胸を張って老い支度をしたいです。


己の死に対してこの様に考える人間に私もなりたいと思う。
動物は自分の死に対してどういう気持ちを持つのだろうかと私は考える。人間が何か思うような気持ちを動物も死に間際に思うのだろうかと。
もし、動物が死に対して何も思わずに死んでいくとしたら、人間は動物とは既に違うという事になるのだろうか。
私は死に対して恐れだの痛みだの不安だのを感じたくない。感じたくないのだが、今からもう恐怖を感じているのだ。
嫌な事はさっさと済ませてしまいたい私でもあるから、何かの拍子に自ら死んでしまうという事もないとは言い切れない。しかし、それを止めているのもこの世に繋ぎとめるものがあるからなのだが、それだけではない、死ぬ瞬間を思うと矢張り怖くて死ねないというのもある。
だから、後はもう運命というものに委ねるしかないのだな。死ぬ時は死んでしまうのだと。私がわざわざ死ななくても運命が死を齎してくれるのだと。


 遠回りばかりの人生だったけど、ユニークな人生にするための種だけはたくさんあるから、泣いたり笑ったりしながら、できるだけ人を傷つけずに済むことを祈りつつ、でも切った張ったにビビらずに、僕は僕の人生をきちんと目撃し、幸せも不幸せもひっくるめて満喫しようと思います。


私も仲の良い人には「無駄な事ばかりしている」と注意されるのだが、それでも私は私のやり方でしか生きていけない。
無駄な事の中には、その事で誰かを傷付けたりもした。
それから目をそらして生きていく事はしなかったが、時には目をそらす事も私のような執着心のある人間には必要な事だった。私が目をそらさないせいで、大抵が状況は悪化の一途を辿ったものだ。それは私が感情的になってしまったせいでもある。
だが、考えてみるに、私に必要だったのは目をそらす事ではなく、筆者の言う通りで、目をそらさずに目撃するという事なのかもしれない。そこには自らの内の感情はそのままでも良い。ただし、それを周囲に撒き散らさずに抱え込む。それを楽しむ事が私にとって一番いい生き方なのかもしれない。


ちなみに、私にも墓場まで持っていくべき話を持っていたりする。決して他人には話せないそんな話がね。