言及したい記事がないではなく書く時間がない


「明日は明日の風が吹く - 言及したい記事が見つからない(from タルタルソースも空を飛ぶ)」を読んで。


私も此処で書いている記事はコミュニケーション関連を中心としたものであるから、如何しても言及する記事はコミュニケーションに話を持っていけるようなものをターゲットにするわけだ。
言及ばかりせずに記事単体で書けば「言及したい記事が見つからない」とはならないのだろうが、私は矢張り言及したい。と言うか、言及というよりは、その記事で思った事や感じた事を書くというスタイルであるので、記事を書いたきっかけとなった記事は「これである」と明記しておきたいわけでもある。


筆者が言及先「タルタルソースも空を飛ぶ言及したい記事が見つからない」から引用した言葉「その記事の完成度が高ければ高いほど、言及しにくいと感じてしまう。」で筆者はこう書いている。


 言及するけれど、同意!で終わるんじゃないかと思ったりもする。一文を拾って広げてみたりするけれど、それは本来の文章に対してどうなのかという事も考えるし。完成されてしまっている文章は、羅列型のニュースサイトなら紹介出来るけど、私はコメントを多くつけるという方針だから、つけれなければ取り上げられないというジレンマが。


これはより完成された記事に対しては言及がしにくいという言葉に対してのコメントになるのだが、私には完成された記事だから言及ができないという気持ちが如何もよく分らない。いや、言及できないという事に関してはそれもそうだなという気持ちはある。では、何故、言及しにくいというのが分らないとしたか。それは、私の記事を書くスタイルが言及とは少々違うと私が思っているからそうなるのであるが。
私は相手の記事が完成されていようが突っ込みどころが満載であろうが、自分語りをさせてしまう記事であればどんな記事でも書いてしまうのだ。
これは、筆者が「本来の文章に対してどうなのか」と言っているように、恐らく相手側の記事を蔑ろにしていると取られてしまうのかもしれない。
だが、私はこのような書き方しか出来ないし、したくないのだ。だからこれからもこういったスタイルで書いていくことだろう。


後、寝かせてから書くというのもあるのだろうが、私に限っては寝かせてしまうと駄目なようである。記事を初見で見た瞬間「書きたい」と思ったら即刻書いてしまわないと気がすまない。だが、そのせいで筆者の意図しない解釈をしたり、記事に関係ないような事を書いてしまったりすることもしばしばなのだがね。(苦笑)


私も筆者のようにネタ探しをしている毎日である。それは言及記事を書きたいからだけでなく、その日一日をしっかりと生きる為でもある。
だが、筆者は「それをやりすぎると、心が麻痺して刺激を感じられなくなるんじゃないか」と不安を感じているようだ。
それは違うと私は思うよ。確かに刺激というものはやり過ぎると麻痺してしまうものだ。快感然り、苦痛然り。しかし、心の活性化を図る為のネタ探しには麻痺というものはない。少なくとも私にはないと断言できる。知れば知るほど刺激を受ける。


様々な考えが世界には満ちている。一方向だけの考えしかないとしたら退屈な世界なのであろうが、幸いか最悪かは分らないが、どのような考えもこの世界には転がっているものだ。それをネットでも見つける事は可能であり、特にネット上だと体験談や本音等といった生の声が溢れている。
それを読んでは心の活性化に繋げている私である。そして、その中から私は「こう思った」と記事を書く。だから言及したい記事が見つからないという事はないとなるわけだ。が、しかし、勿論、私も自由時間が限られているわけであるから、私の場合書けないという状況は単に時間がなかったというだけになるのかもしれないな。なんだ、私にも書けない時があるという事になるか。(笑)


【追記】「明日は明日の風が吹く - 言及したい記事がないではなく書く時間がない(from 歓楽叶わぬ納骨堂庭園)」を読んで。


私は筆者のブログをニュースサイトという目で見ていなかったな。


誰かの書いたものに対して「私はこう思った」という感想を書く事は私にとってはあたりまえの行為であり、魚が水中を泳ぐように人間が空気を吸うように特別でも何でもないものだと思っている。確かに鮪のように人間のように死んでしまうわけではない、ただの比喩ではあるのだが、私にとって感じる事は考える事は生きていく為に必要な事なのだ。だがしかし、もしかしたら感じる事考える事がなければ生き易いのかもしれない、などとも思う。


そして、生きるという事自体も特別でもないと思う時もある。だが、逆に特別なのだと思う事もある私である。そんな矛盾な私も私なのだと思いつつ、今朝は「G線上のアリア」を聴きながらキーボードを叩いているよ。