馬鹿な私よ、堂々と生きよ


「琥珀色の戯言 - 「論理的」が嫌いな理由」を読んで。


私も昔は論理的な思考、論理的な文章の書ける人間になりたいと憧れたものだった。それは、筆者が言っているように論理的の反対が感情的と思っていたからに他ならない。
私が感情的な人間であり、そして何かを書こうとすると感情的な文章しか書けなかったからであるのだが、以前「私は論理的な文章が書きたい」と言った所「あなたは論理的じゃないですか」と言われた事があった。その時の私は「私のどこが論理的なのだろう。この人は私の何を知っているというのだ」と不信感を抱いたものだった。


実は、「意見表明」のキーポイントって、この「論理的」の部分を、どう周囲の人にわかりやすい形で伝えるか、なのです。「どういうプロセスで、その結論にたどり着いたのか?」こそ、「語るべきこと」のはず。


つまり、難解に語るのではなく、分りやすく語るということなのかな。私は分りやすい文章を書いているという事をかつての友人は言いたかったのだろうか。私は相手が何を言いたいのか、何を言っているのか分らない場合が多い。だから、私は自分を馬鹿なんだろうなと思っていた。そして、そんな馬鹿で物分りの悪い自分にも分りやすい文章を書いてきたつもりだ。
論理的な文章が書ける人間とは頭が良い人間なのだと私は思い込んでいたのだが、もしかすると一番論理的な文章を書く能力がある人間とは、物分りの悪い頭の悪い人間なのかもしれない。


そう思うと、私も馬鹿で悪くないのかもしれないな。馬鹿な私よ、堂々と生きよ、といった感じだろうか。(笑)