風は私の心、寂しい気持ちは私の宝物


「勝ち猫 もちの マターリぶろぐ またーりしようよ’ 感想」を読んで。


やっぱり髪をなびかせて立つ姿が思い浮かびました


不思議なものだ。
何処か知らぬ白い砂浜がずっと続く場所で青い空と真っ青な海を背筋を伸ばして立っている自分の姿が目に浮かんだ。


時は初夏。風はもう直ぐ訪れる夏を予感させる爽やかで気持ちが良い。その微風が私の頬を撫でて吹いていく。
此処には誰もいない。
誰もいない、が。
私は気付いている。
見えなくても右隣に左隣に前に後にあなた方が立っている事を。
私と同じく抜けるような海の青さを一緒に見つめているのだと。


それがネットという空間なのだと私は思うよ。


それから、筆者の書いた「触れる」には何だか温かい気持ちを抱いた。


寂しい気持ちを抱いていてもそれを宝物だと思うようにしたい。それは同じく抱き締められたくても抱き締めてもらえず、抱き締めたいと思っても抱き締められぬ人の気持ちを分るという事だからだ。
幼い頃の寂しく思っていた自分は、今、寂しさで打ちひしがれている誰かを抱き締めてあげることで救われる。


おいで。私が抱き締めよう。蹴られても殴られても私が抱き締めてあげたい。


【追記】筆者がコメント記事を書いて下さった。それが「宝」である。


自分のことはよく見えているようで実は見えていない・・・とはどこかの誰かがよく言ったもの。わたしはいつも、振り返って「あの時はわたしはああだったーー」と思うことはあっても、「今、わたしはこうだ」と確認することはしない。けれども、誰かの手や背中(言葉)で自分の今の姿が見えることがある。

この気持ちが抱きしめるということなのだろう。


この様に感じてくれる人が私は好きだ。だから抱き合いたいと思う。有難う、私と抱き合ってくれて。それで私自身も救われる。