我が愛しきピエロ達よ


「Re Person I don’t know - 自分と作品とを引き離す」を読んで。


私も自分語りをする人間である。此処でもしているつもりだし、以前書いていたブログでもそうだった。だが、自分語りでもそれぞれに違いはあるだろう。


 ぼくも例外ではないけれども、自分語りばかりをブログに書く人って弱いと思う。どこがかというと、自分の書いた文章と自分というものを引き離せないところ。文章を中傷されると、まるで自分の存在を否定されたかのように激高したり、悲しんだりする。


この意見に大いに頷いた。頷いたのだが、今の私はたとえ中傷されたとしても自分の存在を否定されたとも思わぬし、多少感情的な気持ちに囚われたとしても激しく怒るとか悲しむという事も無い。それが、私が他の方々の書く自分語りとは違う点であろうな。
以前にも書いたが、私は虚構の私を演じていると言った。虚構と言っても大層なものではなく、ただ文体をこの様な文体で書いているというだけに過ぎない。だから、虚構という言葉もこの場合には適切な表現ではないのだろう。やろうと思えば誰でもが出来る事なのだから。
だが、感情過多な私がこの様な文体で書くという事は精神面にも影響を及ぼす。不思議と落ち着いた気持ちになってくるものなんだよな。誰が何を言おうとも「左様で御座いますか」という気持ちになる。そういう事は他人にはないのだろうか。


 やはり書いている文章から自分を引き離すってのが大切じゃないかな。感覚としては"ピエロとしての自分"を書くのではなく"ピエロを演じている自分"を書くような感じ。


演じる事は大事だと私は考える。勿論、全てにおいて大事とは言わない。演じずに素直な自分を出していくことも大事だろう。だが、それをすることによって自滅していくようでは素直に生きる事が果たしていいことなのか疑問だ。大切なのはずっと立ち続けること。その為に飄々と演じ続ける事が私は大切なのではないかと思っているよ。


私と同じく演じ続ける愛しきピエロ達よ。誰が認めなくても私だけはあなたを認めよう。この見えない腕であなた方を抱き締めているから、そのままあなたを演じ続けていってくれ。