本物の書く人は己自身に向かって書くものなのだ


「『斬(ざん)』:消費されるブログ記事」を読んで。


 一生懸命、構成や文体を考えて記事書いて、推敲して、誤字脱字チェックして、校正して何度も確認してアップする。で、少し話題になったとしても、所詮一週間もしないで忘れ去られ、瞬く間に消費される。それは、とても効率の悪いやり方だよなぁーと悟った。ブログの記事ってのは、ライブ感が重要なんだな、って。それで、それに順応できなければ、ブログではなく、別の方法で評価をもらう事を考える方が得というか、合っているんだろうな、と感じた。


私も文体に気を付けていたり、誤字脱字をチェックしたりして、確かに一生懸命書いているなあと自分でも思っているが、それだからといって話題にもならなくても仮に話題になって一週間もしないうちに忘れ去られても効率が悪いとは思わないな。それだからこそ、私は今までの方法ではなくこういった形でブログを書こうと思い至ったのだから。とは言え、恐らく私がこう言ったとしても、souryuusei0401氏は「それでいいのでは?」という答えではあるのだろうが。
臨場感がいいものであるという考えは私も持ってはいるが、私にとってはそれ程に重要であるとは思っていないので効率だとか読まれる為のノウハウだとかは私には関心が無いのである。ただ私は書きたい。それだけなのだ。


所で、氏は「既に、地位やステイタスを持ってるセレブなブロガーは、このまま何書いてもそこそこ楽しめるんだろうケド」と書いているが、その「楽しめる」というのはセレブなブロガーが「楽しめる」のか、それともセレブの書いたものを読者が楽しめるのか、そこら辺が分からなかったのだが。
私はセレブなブロガーでは無いが、此処で書いている事を大いに楽しんでいるよ。全くの無反応でも無く、そこそこ誰かは相手にして下さるというのもある事は認めるがね。ただ、何度も言うが、私は全く誰も反応して下さらなくても何か書き続ける事は出来ると思っている。それ位、書く事に中毒してる所があるからだ。


そういう人間は、自分の書いたものを消費されようが忘れさられようが如何でもいいと思っているのでは無いかな。何故ならたった一人読む人間が居るだけで満足するのだから。そのたった一人の読者とは「私自身」に他ならない。それが私にとっての「本物の書く人」だと信じている。