そんな想いを誰かに味わわせたくない


「琥珀色の戯言 - 僕が『信頼の手』を離してしまったこと」を読んで。


 転勤があって時間に余裕が無かった(無くなることが予想された)のが最大の理由だったのですが、それ以外にも、僕自身が感じていた「閉塞感」みたいなものが積もって、「プライベート・モード突入」になってしまったのです。あともうひとつ、ちょっと時間が必要なことがあったのですけど。


fujipon氏がブログをプライベートモードにされてから、何度か思い出したようにブログにアクセスをしていた。何があったのだろうと思い、そこで初めて、私がここをプライベートモードにした時に読者の方々に「何があったのだろう」と心配をさせた気持ちを味わったわけである。プライベートモードにしたりブログを閉鎖して全記事を削除してしまうのは筆者の自由であるとはいえ、それをしてしまう事は本当に思いやりに欠ける行為であるのだなと感じ入った。そんな事をするくらいなら、放置してしまった方が幾らもましである、と。
私もここ数日、またしても記事を書く事が出来なかった。モチベーションが下がったという訳ではない。ただ、取り上げて自分語りが出来る記事に巡り合わなかっただけである。


 しばらく休んでみて感じたのは、「僕の場合は、自分が何かを書こういう意志がないと、人が書いたものを読み流してしまうのだな」ということでした。不思議ですよね、書かなくなっても「読む」ということは全然変わりないはずなのに、自分がそこから何かを引き出そうという「野心」みたいなものがないと、読者として素直に楽しめる一方で、「引っかかり」みたいなものは感じなくなってしまうのです。


氏はこう言われているが、私の場合は少々違う。書こうという野心は私には必要が無い。私もここ数日、沢山記事を読んだものだったよ。そして、確かにこの一年は何かを読んだらそこから何かが書けないだろうかと考えで書いていたものだった。それは毎日更新をする為に必要だったからではある。つまりはそれが野心という事にもなるのだろうが、そうやって書こうとする姿勢で書かれたものは、はっきり言って私自身にはそれほど心に残るものを書いたという覚えが無い。私にとって読み返してみて「面白い」と思える自記事は、脊髄反射的に書かれたものばかりだ。だから、書こうと思わないで書きたいと強く思った時に書く事がいいのだろうなと最近では思うようになった。なので、私にとっての引っかかりは自然と生まれてくるものなのかなと思っているよ。


正直言うと、僕がいちばん申し訳ないと感じていたのは、このブログの過去ログに対してなのです。


私も氏の記事で自分語りをさせてもらった事がある。そして、私の記事を取り上げて下さったブロガーも少ないという訳ではない。そういった繋がりが出来た記事を断絶してしまうわけにはいかないよな。たとえ、この命がこの瞬間に失われる事になったとしても、私の記事は死んだわけではない。取り上げて下さった方々が生きている限り、私の書いた物は生き続けるし、この私の場所でも生き続けるわけだ。
私が取り上げさせていただいた記事も何箇所かは閉鎖・削除されてしまった。私の場所でその方々が書いた物やその人の片鱗は残るのであるが、矢張り、リンク先がデッドリンクとなっているのを見るのは悲しい。悲しいよな。そんな悲しい想いを誰かに味わわせたくない。記事を書くペースは落ちていくとしても、削除だけはしないようにしたいものだ。


氏よ。お互いゆっくりマイペースで書いていこう。これからも応援しているよ。