くだらないという言葉は他人に言われるものではない

 「自分の話をすることについて - わなびねこ」を読んで。

 

wanabineko氏と違って、私は子供の頃から他人の話を聞くのがとても好きだった。同時に他人に私の事を知って欲しいという欲求も強かったのだが、残念な事に私は口下手で、自分の考えや思ったことや経験を話す事が難しかったのだ。そんなわけでこの「書く」という行為に傾倒していったものだ。ただ、こういった行為、つまり「書いて誰かに読んで貰う」ということを嫌悪する人々もいることもわかってはいる。wanabineko氏が過去にそういう嫌悪する側であったかどうかはわからぬが、それでも、そういった誰かに自分のことを話す、誰かのことを聞くということに興味がなかったわけであるから、昔のwanabineko氏に私が出会ったとしたら、恐らく互い仲良くは出来なかっただろうな。

 

話は変わって、「くだらないこと言って(書いて)んじゃねーよ」と誰かが他人の言ったことや書いたことについて暴言を吐くことがある。それは聞いた人、見た人によって変わってくるものだよな。ある人にとってはそれは「くだらない」かもしれないが、他のある人にとっては「くだらなくない」となる。もっとも、そういうことは常識のある人ならわかることだろうから、その「くだらない」という言葉を投げつける人というのは、たんに相手を傷つけたいから、あえてその言葉を投げつけるのだろう。私も、よく「くだらない」という言葉を使うことがある。だが、この「くだらない」という言葉は自分自身に向って使う言葉であり、間違っても他人に向けて言うべき言葉ではない、と、私は思っている。

 

それにしても、以前、私に記事を書かせる為に何かを書いてくれるという方がいたが、その方は今はどうしているだろうか。最近ではwanabineko氏が書かれる事を取り上げて記事を書く機会が増えているようだ。それと、wanabineko氏が取り上げているリンク先のブログの主は「くだらない話」と書いているが、私はどちらかというとその方が書かれるような内容のものを読むのが好きなようだ。なので、紹介して下さったwanabineko氏に感謝の意を表したい。有難う。

 

【追記】

 

「「自分の話をすることについて」の続き - わなびねこ」を読んで。

 

wanabineko氏はインターネットで文章を公開することについてハードルが低いとか心理的コストも小さいと言っている。長年、他人に自分の文章を読んで貰ってきた私にとっても現実であっても確かにハードルは低かった。そして、その延長でインターネットで自分の文章を公開するようになった最初の頃は、まったくハードルが高いとは感じてはいなかった。それもあって、所謂、痛い文章を垂れ流していたように思う。ただ、最近では少々ハードルが高くなってきているようにも思う。昔のような何も考えずに速攻で書き散らすということがなくなってきたからな。私の書く物は、人に言わせれば「無理やり読ませられている」と感じるようで、以前はよくそういった言葉を投げつけられたものだったな。今もそれは変わっていないようだ。私が何かを書くと、対人関係でトラブルが生じやすい。それは昔からそうだった。それはもう仕方ないのかもしれない。私の書く物のほとんどが、誰かの反応を引き出したいが為に書いているからでもあるからだ。そこには第三者が関わってくる。そうなると、どうしてもトラブルは生じやすい。なので、本当は私は公開の場で書くべきではないのだろう。トラブルを回避したいのならば。だがしかし、やはり私は書きたいのだ。そして読みたいのだ、誰かの書いた物を。トラブルに突っ込んでいって傷つきまくっても、私は読みたいのだ。そして書きたいのだ。だから、私は此処で書いている。心にナイフを突き立てながら。そんな私のこういった文章こそが、ポエムのようなものだと思わないか?