一万のブックマークが付けばプレッシャーを感じるだろうか


「1万人に読まれるというプレッシャー - G.A.W.」を読んで。


しかし俺は常に「自分という物語」について書いてきた。つまり、文章には常に俺自身がいる。いってみればそれは、俺自身について書かれた一人称の小説のようなものであり、同時に「俺」という人間について書かれたノンフィクションでもある。


小説と言えるのか如何かはわからぬが、確かに私もnakamurabashi氏と同じく「xura」という人格を演じてそれを文章として書いているわけだ。小説を書いているようなものとも言えるかもしれない。だが、本当にこれが小説と言えるのだろうか。何となくだが、私には違和感がある。私は小説を書いていると言えるのだろうか、と。私は有名人でも何でもないので、私の書く物は論説とは言えぬと思っている。自分語りを書いているとは思っているが、その自分語りは小説ではないと思っている。日記を書いているわけではないとは以前も書いたが、日記に一番近いとも言えるかとも思えてきたようだ。その日その日の日常を書く日記ではないが、その日に誰かの書いたものを読んで思ったことを書くといったものも日記と呼べるかもしないと気付いたからだ。


以前、海燕さんのところで「文章と自分のあいだに距離がある」というような文章を見かけたことがあるのだけれど、俺はその対極にあって「文章と自分のあいだの距離はゼロ」だ。あるいはより程度がひどくて「現にここにいる自分よりも、文章のほうにより濃密に自分自身がいる」といってもいいほどだ。


実は私も文章と自分の距離はゼロだと思っている。ただ、日常生活でもこのような文体で喋っているのかと言われたら、それは違う。違うのだが、私にとって距離がゼロという意味は、どれだけそこに書いているものが自分の正直な気持ちであるかどうかであるので、文章により濃密に自身がいたとしても、私は現実の自分も濃密に自分というものを出していると思っているよ。いや、出しているではなく、出ているというべきか。それは出そうとしなくても自然と滲み出ているものだと思う。それは誰だろうがそうなのではないかというのが私の考えだ。たとえ、nakamurabashi氏が感じているような現実の自分が夢の中にいるような気分があったとしても、どんなに世界が自動的に動いているシステムのように感じられていたとしても、他人にとっては氏は其処にちゃんと存在している人間として捉えている筈だからだ。その記事を書いているのはnakamurabashi氏であり、それを書いた者は現実に居るのだという事実が、氏がちゃんと存在している証なのだからな。それともその記事を書いたのは実体の無い幽霊のようなものなのか?だが、たとえ幽霊がその記事を書いていたとしても、そこに書かれているものが多くの人間に目撃されているとしたら、幽霊だろうが人間だろうが、何かが其処に存在しているということだ。私はそういうことに注目したい。たとえ氏が実体がなく、霊体のような存在だとしても、私に何かを考えさせるものを書いてくれた有り難い存在だとな。


有り難い存在、か。私も他人の記事を取り上げて自分語りをしているわけだ。それはブックマークのコメントを利用して自分の立ち位置を見せ付けているのと同じようなことだよな。私も他人の記事を利用しているわけだ。それは書かれた相手にとって不快感を持たれても仕方ないことなのかもしれない。だが、私が逆の立場になったとしたら、私は私の書く物で誰かが自分語りだの、コメントだのを書いてくれるのは願ってもない喜びだと思っているよ。それがたとえネガティヴなものだったしても。私の書いた物で、正直な思いを発して欲しいと私は常に願っている。そして、それは私だけではなく、他にも同士は居ると思ってもいるのだからな。


理想的に文章のなかに書かれた自分こそが自分であるという、誇大妄想じみたものだ。俺はそれを恐れる。


私も理想的な自分を文章に書いてはいる。嘘は書いてはいないつもりだが、脚色は確かにしたこともある。だが、基本的に私は嘘は書いてはいない。自分の考えや思いは嘘偽りないことを書いている。nakamurabashi氏にしても、嘘八百を並べ立てて書いているわけではないだろう。書いている事は自分が思ったことを書いている筈ではないのかと思うのだが。それこそ、まったく自分が考えてもいないようなことを書いているのならば誇大妄想を書いているとも言えようが、もし「こうなりたい」という思いで書いているのだとしたら、氏はその理想的な自分になれる可能性はあると私は思うよ。理想を書いて書いて書き続けて、それがいずれは現実にも影響力を与えることはあるはずだと私は信じているのだから。私は一人知っている。こうなりたいという理想を掲げて、そうなれると信じて生きていき、努力の果てに他人にもその理想の自分を認めてもらうことが出来るようになった人をな。だから、信じられるのだ。何時か自分も理想の自分になれるのだと。


俺は長文を書くためにここにいます。


全削除して逃亡しないことを切に祈っている。そのまま其処で書き続けてくれ。私も誰かにそう言われるのかもしれないが。だが、私も理想の自分の為に「私」として書き続けるよ。それを私の書く物を待っていてくれる誰かに約束しよう。


それにしても、まだウェブ世界も捨てたものじゃないな。私に何かを書かせる物を書いている者がまだまだ居るのだからな。「一万人に読まれるプレッシャー」か。私の書く物は一万人に読まれるなどという事はないと思われるので、そのプレッシャーがどういったものか想像するしかない。だが、恐らく百万人に読まれようともプレッシャーなど私は感じぬと思うよ。それは、たとえ本当に一万人に読まれていたとしても、それほど多くの人間に読まれているとは如何しても感じられないからだ。ブックマークが一万付けば信じられるかもしれないが、そんな事は決して起こらないと私は思っているからな。確かに可能性は無いとは言えぬが、それは一万のブックマークを貰ってから考えたい。もし一万のブックマークが付いたとして、その時にプレッシャーを私が感じたとしたら、プレッシャーを感じないだろうと言った事を撤回しよう。だから、それまでは私は「一万人に読まれたとしてもプレッシャーなど感じぬよ」と言い続ける。尤も、百や千も付くかどうか難しい私の書く物に一万もブックマークが付く筈もないのだがな。