此処での私は虚構の私である


「Re Person I don’t know xuraさんへ」を読んで。


筆者はご自分の書かれた文章が違った受け取り方をされていると言われているが、私の方こそ読解力の無さから筆者の意図しない受け取り方をしてしまったようだ。申し訳ない。
そこでもう一度筆者が書いている「Re Person I don’t know 抑制の利いた筆致」を読んでみた。


確かに感情的な文章が嫌いであるとは書かれていない。だから筆者が感情的な文章が嫌いであると決め付けることは浅はかな事である。
筆者が「不和」を取り上げて書いている事は分っていた事であるが、恐らく私が誤読してしまったのも「不和」と「過激な発言」を筆者が同じであると捉えているのではないかと思ったからのようだ。


 ネット上は過激な発言が多い。注目を浴びるためには差別化も必要なのかもしれないが、少し辟易している。


 人が怒っていたり嫌みを言っている姿は美しくない。



この書き方で不和と過激な発言が同じように私には思えたのだな。私が好んで読む「過激な内容の日記」と「過激な発言」は筆者が新しく記事を書いて下さった「Re Person I don’t know xuraさんへ」を読んでみて、成る程違う種類の過激なのだなと気が付いた。
つまり、過激な発言とは二人のブロガーが言い合いをしている時に出てくる過激な発言という事なのだろう。違っていたら申し訳ない。だが、強ち間違いではないようだ。以下の一文でも分る通りで。


実はぼくの先のエントリーは、最近はてなで起こっているある"具体的"な不和について言及したものである。



筆者が一般的な事を書いている事は重々承知している。だが、その一般的な事でも私の身に覚えのある事が書かれてある場合、私はそれに反応してしまうタイプなのだ。だから脊髄反射的に記事を書いてしまった。
だが、私の書いた物でその様に話を膨らませて記事を書いて下さった事は嬉しく思う。有難う。


そして、私も気になった事を一点挙げさせて頂く。
私が感情的な人間であるのにも関わらずそれを抑えて書いている事を人は嫌悪感を感じるかもしれないと私は書いたのだが、感情を露骨に表さなくても嫌悪感は感じないと筆者は言って下さった。
しかし、私が言いたかった事はそうでなく、感情的な人間であるのにそれを素直に表現せずに本来の自分とは違う虚構としての文章を書いているという点で嫌悪感を感じる人間もいるのではないかと思ったのだ。
つまり、此処での私の文章は私が目指している文章を追求しているに過ぎず、本来の私は感情過多な文章を書く人間であるので、読者に虚構の私を見せているわけであるからだ。


そんな私であっても好感を持って頂けるものであろうか?


【追記】「はてなブックマーク - 歓楽叶わぬ納骨堂庭園 - 此処での私は虚構の私である」で言及相手にコメントを頂いた。


人間は常に虚構だと思う。自己幻想と言い換えてもよい。それが自己にとって求める姿であるのかが重要。虚構=自分の理想像でありたい。その際、あまり他者の評価は問題ではないと思う、


そうだ。虚構を演じているのも私がその虚構に憧れているからである。その虚構が己の真の姿になるとは思ってはいないが、それでもそうありたい、近づきたいという思いは強い。それを否定されるのは流石にこの私でも辛いのだが、筆者の言う通りで「他者の評価は問題ではない」という事も分らないではない。何時かその他者の評価をスルー出来る人間になりたいと思う。今はまだ好ましく思う相手に否定されたらと思うと怖いので多少言及相手の顔色(この場合であれば文色とでも言うのかな)を伺ってしまう嫌いがあるのだが。