助けてくれるのは友達であっては駄目なんだ


「ヘボメガネ一進一退 - 僕に本当の友達と呼べる人間はいない」を読んで。


私には、本当に私が困った時に助けてくれる人が少なくとも二人居るよ。その二人の内の一人は友達とは呼べない。もう一人も友達のようなそうでないようなそんな相手だ。誰であるかは言いたくないので言わないがな。
私は友達に助けて貰おうとは思わない。私を助けるくらいなら、自分自身を如何にかしろと言うだろう。自分の事もちゃんと出来ない人間が誰かを助けようなどと考えるもんじゃない。そう思っているよ。私を助けてくれるのは友達であっては駄目なんだと思っている。


人をある価値観に基づいて、ふるいに掛けるなんてことは僕が一番忌み嫌っていることじゃないか。だとしたら、「本当の友達」という価値観に縛られることは、他人を拒絶しているのときっと同義なんじゃないだろうかと思った。だって、自分にとって友達と思える存在が居るのであれば、それは友達以外の何者でも無いじゃない。その感覚を否定する必要も無い。友達だと思える存在がいること。それだけで十分贅沢なことじゃないか。そう思えた。


私はふるいに掛けることを悪い事とは思っていない。感情のある人間だから、如何したって誰かを贔屓目に見てしまうものだ。私を好意的に見てくれる人に対しては友達に対する気持ちを抱くよ。「本当の友達」と思いたくなる事だってある。相手も自分を友達と思ってくれ、そして自分も友達だと思っているような二人であれば、それだけで私は「本当の友達」と定義付けしたい。そこには、困った時に手を差し伸べてくれるか如何かなど如何でもいいと私は思っている。何かをするとかしないとかではなく、気持ちの問題だと、な。