私は分らないが分らない人間


「MORI LOG ACADEMY わかってもらえなかった」を読んで。


 もともと、ノンフィクションを読む意義というのは、自分とは違う価値観に触れることにある。違うものに触れることで自分を確かめ、修正し、自分を築く。ところが、小説などのフィクションを主に読む読者というのは、自分に似た価値観、自分が好きな価値観を探して読んでいる。だから、違う価値観に出会うと、「これは違う」「これは自分には合わない」と拒否してしまう傾向がある。


成る程、確かに言われてみればそうかもしれない。私も小説では追体験が出来るものや自分の心情に合致するものを好んで読む傾向があるからな。
だが、価値観と言えるのかどうかは分らないが、自分が感じたことのない世界観をあたかも別の人生を生きるが如く読む小説というものもある。現実では決して生きる事の出来ない別の人生を小説を読む事で体験したいという思いから読むのであるが、それは価値観が違うという事をわざわざ体感してみたいという気持ちからだと私は思っていたのだが。
現実では「これは自分には合わない」という物は遠ざけたいものである。しかし、虚構であるのならやってみる価値はある。そんな思いから読む小説もあるのだが、そういう読み方をする人間もいないわけではないと私は考える。


 人にわかってもらっても、わかってもらえなくても、いずれにしても僕には無関係なのである。もう少し僕が優しくて他人のためになりたいと願っている人間だったら、もう少し歩み寄って、説得をしただろう。僕はそれが面倒でしなかっただけである。認めてもらって褒めてもらうことに価値を見出していないからだ。


この考えは今の私にも言える事だな。昔の私は兎に角認めてもらいたかった。それだけを躍起になって考えたものだった。如何すれば相手に分ってもらえるのだろうと、その事ばかりを考えていた。しかし、ことごとく認めてもらえぬという事で、ある時「もうどうでもいい」と諦観してしまったのだな。後、私自身も相手の何を分っているのかに疑問を感じるようになったからだ。
確かに相手を分る事は大切な事なのかもしれない。そして、分らなければ分かり合おうとする事も大事ではある。だが「この人だけは」という相手以外は無理に分ろうとしないでもいいのではないのかと思うようになっていった。
私にとって「分らない」という事は恥ずかしい事であったのかもしれない。だから、それまでは「分らない」を言う事にためらいを感じていた。なので、分らなくても「分った」と言っていたように思う。それに私は、何が分らないのか、何処が分らないのかを上手く説明が出来ない性質でもあるので「分らない」と素直に言う事が出来なかったようである。


ただ、筆者が言うような「分ったら得」とか「分らないのは損」という考え方はどうだろうか。得であるか損であるかは人によって違うものではないのか。だがしかし、今まで知らなかった価値観を知ったり分ったりする事は内面を豊かにするという点で考えれば確かに得とも言えるのかもしれない。