それは本物の愛じゃない


「Lubber-Lover 呪いあれ」を読んで。


 男女間でいえばさらに生々しいものとなる。「後ろ姿のあのひとにしあわせになれなんて祈れない」という中島みゆきの歌詞があるが、背中を向けられ顔も見えない男のしあわせをどうして願うことができるだろうか。相手がこちらを向いていないだけではなく、こちらはその背中を見続けているというのに。祈れない、だけではない。身体ごとわたしからそらして無かったつもりにしているのならば、その隙だらけの脊髄めがけて鈍器を振り下ろしてやりたい。


想いをかけてくれない男に対して「あなたの幸せだけを祈っている」と、そう呟いていた女がかつていた。彼女は知らない。いや、知っていたのかもしれないが、認めたくなかったのかもしれない。男がそんな女を疎ましく思っていたことなど。何故なら男は日頃から言い続けていたはず。


「それは本物の愛じゃない」と。


俺の幸せなど祈るな。おまえ自身の幸せを祈れよ。俺じゃない、お前が幸せにならなくては意味がない。おまえを幸せに出来ない俺のことなど殺してしまえよ。幾らでも殺されてやるよ。おまえが幸せになるのならな。何故いい子ぶるんだ? 欲しくて欲しくて仕方ないのなら奪ってみろよ。だが奪ったとしても俺はおまえを愛する事はない。それならば殺してしまえ。手にかけることが出来ないのならおまえの心の中に居る俺を殺してしまえ。俺の存在など消してしまえ。俺という存在などこの世から消し去ればいい。俺は最初からいなかった。俺は存在なんかしてないんだよ。おまえの妄想だったんだよ。


「俺は妄想の産物」と。


否定され続けた女は私ではないし、否定し続けた男は私ではない。どちらも私の脳内で生まれた妄想の産物だとしたら?
だが、これと同じような状況を見たことがある。男も女も己の気持ちを思い通りに出来ずに泥沼になっていく様を、私はずっと見続けていた。自分を幸せに出来るのは他人ではない。自分しかいないという事に彼らは気付いていないのだ。


ところで、sub_stance氏は子供は嫌いではないらしいが、私は心底から子供を嫌っている。まるで自分の子供の頃を見ているようで吐き気がするからだ。勿論、それが子供である証拠であるので子供を否定するわけではない。大人びた子供はもっと嫌いであるから。