私がいないことで不幸になればいい

とある物語の逸話に認知症になった親を絞め殺して自分も首を吊るという話があり、どういった経緯でそういうことになったのか、その謎解きをするというのがあったのだが、巷ではそういった親殺し子殺しというのは全くないわけではなく、当たり前とは言わないが、殺さないだけで殺したいという気持ちを持っている者の存在は少ないわけではないのではないか。現に義親を介護している私の知り合いも「自分もそうなってしまう危険性はある」と言っていたからな。

 

その知り合いは異世界転移物が好きで、最近ではよくそういった内容の物語を読んでいるそうだが、死んだ人達がそういった異世界転移や転生とかをして別の世界で幸せになってればいいと言っていた。親を殺してしまった物語の人物は自分が親を看取るまで生きられない病であることを悲観して親に手をかけ、そして自ら自死したわけだが、そういったことで誰かを手にかけてしまうということは現実でも多いだろう。或いは、悲惨な殺され方をした人物が、タイミングが悪かったせいでそんな目に遭ってしまったというのもあるだろう。そういった悲惨な終焉を迎えた人達が、異世界で幸せになればいいと知り合いは思っているようだ。

 

それと同じように、現実世界で死に別れではなく、ちょっとした喧嘩で別れてしまったとか、どうしても一緒にはいられなくて泣く泣く別れてしまったとか、そういった様々な理由で別れてしまった相手がいる人の中には、相手が自分の知らない場所で幸せになってほしいと願う人もいるようだ。たまたまそういったことを書いている人がいたのを見たのだが、それはそれでどんな別れ方をしたのかはわからないが、次の言葉で私は不快感を抱いた。それが「それを自分が知ることがないように」だった。私にはその言葉が、相手のことを全く想っていないと感じられたからだ。勿論、その発言をした人物も自分が傲慢だという気持ちは持っているかもしれない。恐らく。だが、その一言で、その人は相手のことをどうでもいい相手だったのだと私には感じられたのだ。或いは、離れられなかった何かがあってずっと一緒にいたが、どうしても相性が悪くて、やっと離れることができたのかもな。好きでも嫌いでもなく、それでもずっと一緒にいて知らない仲ではなかったので、自分は傍にはいないが、一人で勝手に幸せになってくれといったところか。

 

本当に相手が幸せになれると思っているのだろうかと私は思うよ。もしかしたら、相手にとってその人だけが心の拠り所で、その人がいるだけで幸せだったのが、その人がいなくなってしまってこれ以降死ぬまで不幸であり続けるのかもしれないのにな。

 

別れた相手の幸せを願うという心根は何と傲慢で不遜で暴慢なものだろう。それは知り合いの、異世界で幸せになってほしいという心根も同じだ。確かに自分と全く関係ない殺された誰かが、別の世界で幸せであればいいのにと願うことは、言葉としては優しい心の人なんだと周囲に思わせることもできるだろう。だが、自分で幸せにできないのなら、幸せであれと願うのも勝手なことであり、まだ何も願わない方が真摯な態度ではないかと私は思うよ。勿論、願うは自由。願えたければ願えばいい。だがしかし、願っている姿を見せるべきじゃない。それを素直に受けとれない者からしたら、そのあざとさに嫌悪感を抱くものだ。だが、それを見せることで、その人の人となりがわかるわけでもあるから、大いに素直な気持ちを書いていけばいい。私はそう思っているよ。好きに書けばいい、と。

 

そういえば、話は少し変わるが、昔、私がやってしまった失態で懇意にしていた方がその方の友人達から非難されたことがあった。その方の友人達は私とその方との間にあったことをよく知りもせずに、上辺だけの事情だけでその方を糾弾していたのだが、あれは全面的に私が悪かった。その方は私達の間に起こった詳細は明かさず黙したままだったので、結局は何人かの人達がその方から離れてしまったようだ。そして、それと同じ立場に後に私も陥ったことがあったのだが、私は生憎といい性質の人間ではないので、かなり大々的に己の事情を書き連ねたことがある。当時は心からか建前からか、それなりに慰めてくれる人達がいたが、今の私には幸か不幸か、私を非難する友も援護する友もいないのでまだマシなのかもしれない。とはいえ、人としてそれもどうかと思うがな。私はそういった性質の悪い人間だ。なので、もし、何処かに私に対して「幸せになって欲しい」と願っている人がいたとする。だが、そういうわけで、私はいい人間でもなく、優しくもないから取り繕う気もない。なので、私はこう言うだろう。「私がいないことで不幸せになればいい」と。

 

私は人の不幸を願う。そういう人間なんだよ。さあ、軽蔑すればいい。地獄に落ちろ、と。