Twitterは面白い


ネットに未練がある人はTwitterを眺めてみるのもいいという言葉を見かけた。確かに、ブログの記事はそれ程読みたいとは思わない人でも、Twitterでの発言は面白いという人もいるなと私も思っている。私もTwitterでの発言はよく見ているから、誰かの別の面を発見して楽しいと思っているよ。尤も、プロテクトをしている人の発言は読めないので、読みたいと思う人の発言が読めない時は残念に思っているが。

私もキャラクターを作り上げてブログを書いているわけだが、私などの別の面など見たいと思う人がいるのだろうか。勿論、そういった酔狂な人もいないわけじゃないだろう。だが、それはせいぜい一人か二人くらいであろうし、私が別の面を見せた途端に離れていった過去が事実としてある限りは、さすがに泰然自若としてはいられない。だから、私は別の面を見せるつもりはない。そんな私がこう言うのも気が引けるのだが、Twitterをしてる人は、どうかプロテクトなどせずに堂々とTwitterをして欲しい。それが私の望みだ。


【追記】はてなブックマークでsuVene氏よりコメントを頂いた。

「別の面を見て寄ってくるものもいるだろうに、それは相殺されるものではないという」


確かに寄ってくる者はいるだろう。だが、私が好ましく思っていて付き合っていきたいと思う人は必ず離れていくと私は知っているのだ。だから、私は別の面を見せるつもりはない。


【さらに追記】suVene氏よりさらにコメントを頂いた。

「どちらが表か裏かは判断つくものなのかな。かつ、<他者>の中身を<知っている>のも難しいな。」

判断をつけるための努力はしている。だが、その努力が相手から嫌われてしまうらしいということもわかっている。わかっているのならそんな努力はすべきではないと言われるかもしれぬが、これは私にもどうしようもないのだ。努力をせねば不安になってしまうからでもある。それに、恐らく努力しなくても私は相手に嫌われる。生まれてから一度も私は好ましいと思う相手から手を伸ばされたことがないからだ。信じられるわけないじゃないか。安心できるわけないじゃないか。だが、勿論、こんな私でさえも好ましく思ってくださるであろう人はいないわけじゃない。恐らく私の努力も受け入れてくれるだろう。が、しかし、私はその人を好ましくは思えないようなのだな。

私は己が好きだと思う人と関わるべきではないのか。好きな相手に好かれることは決してないのだから。相手の望むままに変わった事もある。それでも好かれることはなかったのだ。結局、私はそれだけの人間なのだよ。だがしかし、私は変われない。いや、変わりたくない。私はこれからもこのままで好きなその人に思いを寄せ続けるしかない。決して好かれないとわかっていても。