傷付いたあなたの癒しになればいい


「ゼロ成長な日々 - たとえ一行でもたとえネガティヴでもコメントは嬉しい(経由:はてブ)」を読んで。


自分はまだネガティブコメントに対して耐性が無いので,
付いたら1日中凹むだろうと思うけど,
でも,コメントが無いよりは幸せなんだろうと思う.


誰でも最初はネガティヴなコメントをされたらへこむ。それは私もそうだった。初めて自分の書いたものに否定的なコメントをされて、それが今思うと大した事ではないものだったにしろ、その時に感じた気持ちを今でもありありと思い出す事が出来る。相手は自分の事を思ってくれていたのだが、それで「それは違う」と言ってくれたわけなのだが、私は全てを否定されたと思ってしまったのだ。
私は自分に自信が持てない人間だと思っていた。だから、否定されて恥ずかしく思い直そうと思ったのも自分に自信が持てないからなのだと思っていた。だが、それは違うなと今は思う。


あの頃の私は発言を否定されるとそれを直さなくてはいけない、私は恥ずかしい人間、非常識な人間なのだと思ったものだった。それは自分に自信がないからなのだ、自信がないから他人の言った事で自分自身を恥じたのだと思っていたのだ。
だがしかし、もしかしたら私は余りにも自信が有り過ぎたのではないか、その自信過剰になっていったのも、私を褒め称える人々の存在のせいだったのではないか。
誰も私を否定する者はそれまでにいなかった。誰でもが私の言う事に添うような事ばかり言っていた。そういうものなのだと私は思い込んでいたのかもしれない。頭では「私も間違う事はある」と分っていても、いざ「あなたは違う」と言われてみると、その理不尽さに憤りを感じてしまったのだ。だがその理不尽さは私だけの感じる理不尽さであったのだが。


そうだね。ネガティヴなコメントを貰うと一日中その事が頭から離れずに何をしていても相手の言葉が離れなかったね。そして、相手は私に失望したのだ、嫌われてしまったのだと思い込み、それからは相手に距離を置いてしまうようになっていった。
そんな事を私は何度も繰り返してきた。


「はてなブックマーク - 歓楽叶わぬ納骨堂庭園 - たとえ一行でもたとえネガティヴでもコメントは嬉しい」のコメントでも書かれていた方がいるが、私も「死ね」の類の言葉は投げつけられた事もある。存在自体を悪という決め付けをされた事もある。初めて「死ね」とメールを送られてきた時の気持ちを私は忘れる事は無い。身体が熱くなるとよく言われるが、本当に身体が火で炙られているような熱さを感じたものだった。
だが、あれからはそれ以上のネガティヴなコメントを貰った事は無い。それどころかそれ以外のコメントも貰う事はなくなってしまったのだ。貰わないように気を付けていたわけであるが、そうなると今度は自分の書いた物に満足する事も無くなってしまった。
正直な気持ちを書かない記事ほど詰まらない物は無い。別に嘘を書いているわけではないが、心の底から湧き出てくる自分の想いという物を書かなくなってしまったらもうお仕舞いだなと今の私は思う。


それから、コメントでコメント欄の解放について書いてくださった方がいるが、これからも開くつもりは無い。貰えれば嬉しい気持ちは確かにあるわけだが、私が此処で書く事にしたのもコメントはブックマークから貰えるからなのだ。私はこのスタイルの方が冷静になれるから。


かつて私が書いたもの達は、このネット世界の何処かでひっそりと誰かを待っているのだろう。此処とは別の庭園の奥底でコミュニケーションに傷付いた誰かを励ます為にその人を待ち続けているのだ。私の書いたもの如きがその様な治癒効果があるとは思っては貰えぬかもしれないが、それでもたった一人でも誰かは癒されてくれるかもしれない。そんな祈りにも似た気持ちを私は抱いている。