次の段階に移ったと言っても良いだろうか?


「こころの風景 ブログにおける「自分語り」に思う」を読んで。


私の書いた記事「歓楽叶わぬ納骨堂庭園 - 読んで思わず記事を書いてしまうブログ」を参照として挙げて頂いた。


私はコメントを付けようとすると自分語りをしてしまいそうになるのでコメントを今は差し控えているのであるが、自分語りを嫌がる人を否定しているわけではない。それはその人の好みであるから私も否定したくないのでそれもあって勝手ながら「この人は自分語りは嫌いなようだ」と印象を持った場所にはコメントをしないようにしているのだ。今の私で言えばコメント代わりの記事を書かないようにといったところか。だが、相手のフィールドに書かない代わりに此処で書かせてもらう分には自分語りを嫌う人のブログの感想も勝手に此処で書かせてもらいたいという気持ちは持っている。だから、此れからも公開されているブログで何か書きたいと思ったら何も考えずに此処で感じた事を書かせてもらうつもりだ。


日本の場合、個人の日記としてのブログの多くは自分の経験や思うことを書いている。これを「自分語り」と括ったりもする。おそらくこの時間にも日本のあちこちで、パソコンに向かって自分語りをしている人間がたくさん居に違いない。


私は自分語りといったものが本当はどういったものを差すのか分っていないのではないかと気付いた。自分の経験を語るのは自分語りというのは分ってはいるが、何かを見たり聞いたりして思ったことや感じたことを書く事も自分語りなのだとすれば、ほぼ全てのブログで語られていることは自分語りであるとは言えはしまいか?
つまり「自分語りは嫌いだ、書くな」と言って誰かの書いた自分語りについて自分はこう思っていると書いているその本人も自分語りをしていると思ったのだが、違うのだろうか?


ところがブログで自分語りをすることに対して抵抗感を持ったり、自分語りしかできない自分のブログに劣等感を抱いたりしている人もいる。


そうか。もしかしたら、自分語りを嫌っている人こそ、自分語りをしてしまう自分に無意識に劣等感を持っているのかもしれない。だから、その劣等感が暢気に自分語りをしている他者に向かって向けられた結果「自分語りなどするな」となったのかもしれないな。劣等感も適度な劣等感であったり自覚のある劣等感ならば自己を向上させる力もあるだろう。だがしかし、無自覚な劣等感ほどやっかいなものはない。自己の向上に全く繋がらないからだ。自覚が出来るという事を幸せに思わなければならないな。


話は変わって、筆者はこんな風に言っている。


おそらく個人的な自分語りが生の体験を書き連ねるものではなく、生の感情をぶつける文章ではなくなるときが、そのブロガーの次の段階なのかなと思う。


私も今では生の体験談を書いているわけではない。そして、極力生の感情をぶつける文章も書いてはいない。だが、かつては生々しいまでに感情的な文章を書き連ねていた私であるのだ。つまりは、筆者の言葉を借りて言うならば、私は次の段階に行ったという事なのかな。そうであれば嬉しいと思うよ。