全てはまず傷付き傷付けられる事から始まる


「パソコンはおもちゃ箱 - 傷つくことを怖れないで」を読んで。


かつて、私に「交流を止めないで」と言ってくれた人がいた。その人も筆者の言うように、私の体験はマイナスにはならないと思ってくれていたのだろう。
私の人となりが豊かになっているか如何かは疑問に思っているが、対人関係で慎重になる大切さは身に付いたかもしれないな。


若い人が、他人を傷つけること、自らが傷つくことを怖れすぎているように感じて気にかかる。


若い人に限らないのではないか。年のいった人でも恐れ過ぎている人はいる。多いかどうかは分らないが、私の知っている人々には私より年長者が何人かいて、その人達も私同様、傷付き傷付けられる事に過剰に敏感になっているようだ。はてなブックマークのコメントでも誰かが「傷つくことを過度に恐れているのでは?」とコメントを下さった方もいるように、そういう過度に恐れる人は私の印象では多いように思う。これも根拠があるわけではない。私がそういう傷付きやすい人を見つけてしまう傾向があるだけに過ぎないのだろう。


それなりに感受性が強かった若い頃から、他人を傷つけたり傷つけられたりといった人間関係での修羅を生き抜き、そのほかの経験も積み上げてきた世代である。そんな年長者として、ブログをやっている人特に若い世代の人たちが、傷つくことを怖れず他者と向かい合って生きてほしいと切に願っている。


思ったのであるが、他者と向かい合うという事はどうしたって傷付き傷付けられる事は避けられない。「傷付く事を恐れずに」という事は、まず傷付いてしまわないといけないのではないのか、と。つまり、誰かとの関係で傷付き落ちる所まで落ち、そこから今までを振り返り、自分はどうあればいいのだろうかと考える。こんな風に他人の意見も聞き、更に考える。
傷付き傷付けられる事を極力避けて相手と付き合っていく事が出来るという事は、何度でもその傷付き傷付けられを経験していかないと身に付かないものではないのか。最初から上手く立ち回れる人間もいないわけではないだろうが、矢張りほとんどの人間が最初は無防備なのだ。だから、まず傷付き傷付けられてから、そこから「またやってみよう」と思えるようになる事が大切なのかなと思った。


筆者は「この人と繋がりたい」という相手が見つかることを心から祈って下さったが、実はいないわけではない。ただ、今はまだ過去の経験がフラッシュバックをして怖くて繋がれないのが本音なのだ。誰に誤解されてもいいと思っている私であるが、流石の私もその人だけには誤解されたくないと思っているからだ。何時か、その人に対して行動を起こせればいいと思っているが、まだそこまで気持ちは固まっていない。もう少し時間はかかるようだが、筆者の気持ちには感謝している、有難う。