私は此処であなたを待っている


「シロクマの屑籠(汎適所属) - 実際に踏み込んでみないと、私はコミュニケーションの間合いすら把握出来ません」を読んで。


まず、ざっと一読して感じた事は「何とすっきりとした人なんだ」だった。これは記事を読んでの私の率直な印象なのだが、筆者は相手に踏み込んで傷付いたり傷付けてしまったりしても恐らく何度も誰かと繋がろうとする人なのだろう。それを感じたのが以下の文章である。


確かに、「地域社会」のように時間をかけてコミュニケーションの深さを深めていくのは難しいかもしれない。けれどその代わり、私には、対象ブログを何度も何度も閲覧したり、対象ブロガーの振る舞いを長時間観察したうえで発言したりするゆとりが与えられているし、よしんばコミュニケーションに失敗したらコミュニケーションの対象を交換するチャンスだってある。


私は対象に対して執着心を持ち過ぎるようだ。つまり「この相手」となったらなかなか替えがきかなくなるのである。私のような人間が恐らくストーカーになってしまうタイプなのだろう。だが、それは考えてみるに私自身が誰かから「あなただけだ」と言われたいという気持ちが心の奥底にあるからに他ならないのではないか。今までにもコミュニケーションに失敗し、相手はもう私とは繋がりたくないと思っているのにそれを受け入れる事が出来ずに更に接触を持ってしまい、相手も自分も傷付けるだけの関係しか続けられなかった。
此れはもう私自身の気持ちの持ちようを変えるしか道は無いという事なのだが、なかなか本質を変えるのも難しいものである。
私はどうすれば自分の執着心を捨てる事が出来るのか分らない。
だがしかし、本当は私には分っているのかもししれない。執着心を捨て去るのは簡単な事なのだと。それでは何故捨てられないのか。恐らく、私はこの執着心を捨てたくないと思っているのだ。私の執着心、それは生きる為の手段でもある。私にとってファジーという言葉はない。常に「ゼロ」か「全て」である。その考え方が一番悪いのだと分っていても変えられない。
だから、私が此れから変えなければならないとしたら、その執着心を無くすのではなく、執着心を時と場合によって使い分けるようにする事だろう。


踏み込みをひたすら浅くしていてはなかなか気づきにくい諸々に気づいたり、気づいて貰ったり、怒られたり、喜ばれたり。それが、私がしばしば欲しがる人間関係っぽい。


私もかつては相手に踏み込むのをためらう人間ではなかった。浅い付き合いが嫌であり、相手と深く繋がりたいと思っていた。それは幼少時代に親友と呼べる人間を持つ事が出来なかったからだと自分では思っているのだが、恐らく私があの頃に親友が出来なかったのも「ゼロ」か「全て」かの性格が災いしていたのかもしれない。だから、ネットで誰かと繋がろうと積極的に動いたとしても、その性格のせいでことごとく関係は壊れていったのだろう。
私も筆者のように相手と丁度良い距離を保ちつつ関係を続けていき、その関係の中から「この人となら深く繋がれる」という相手を見つけていきたい。結局は私は誰かと深く繋がりたいと思っているのだから。


ところで、蛇足ながら、筆者の言っているこの言葉が私は大層気に入った。


私は今、納骨堂の敷居をまたいでいる最中というわけだ


死臭漂う歓楽の叶わぬ土地には納骨堂庭園があり、私は疲れ果ててこの場にやってきた。人が死してしまったら時が止まる。ここは時が止まった場所。庭園の周りには深い森が横たわり、傍には川が流れ、この庭園だけには死臭は漂ってこない。私はそんな場所で静かに今までの私の軌跡に思いを馳せていきたい。そして、ふらっとやってくる訪問者と暫しの会話を楽しみたいとそう思っている。


有難う、此処に来てくれて。私はあなたを歓迎する。


【追記】其方のコメントを読ませて頂いた。書き込めないようにしていて申し訳ない。私が鬱陶しいと思われる事はあっても誰かを鬱陶しいと思った事はないので安心して訪れて欲しい。有難う。此方こそ宜しく。