私の想いは伝わらない


「こんな世界のはしっこで・・・ いつから、その向こう側に目を向けるよう…」を読んで。


私はブログが最初ではなかった。最初はサイトを通じて人間関係を構築していったわけであるから、記事から相手に入ることはなかった。だが、相手を好きになるきっかけは矢張り書いたものであるから、記事で相手を好きになるという事と同じなわけだ。


私が相手に興味を持つのに二通りある事に筆者が書いたこの記事で気が付いた。
一つは雰囲気である。それには感情的な文章が手助けをしている。感情的な文章によって創り出された雰囲気、或いはそれとは 対極の淡々とした綴りで創り出される独特な雰囲気、それらの雰囲気を心地良いと思うようになり、それから「これを書いた人とはどんな人だろう」と興味を持っていく。
後一つはキーワードとなる言葉である。その言葉とは「興味を持ってくれますか」である。このキーワードは一つだけではなく、自分を好きになってもらえるか、自分を誰かにとって大切な存在と成り得るか等、そういった問いかけをしているというものである。
前者の場合は私だけでなく、多くの人がそういう傾向はあるのではないかと思うのだが、後者の場合は好き嫌いが分かれるかもしれないな。


私のサイトを見に来る人の中で、ここに「何が書かれているか」ではなく、「私が何を書いたか」に興味を持ってきてくれる人はどれくらいいるのだろうか…。ふとそんなことを考えた。


私はこういう記述を見ると俄然相手に興味が出てくる人間だ。他人は、この人の書いているものをずっと読んできて、その上での「興味を持ってくれるだろうか」という筆者の呟きに「興味あるよ、何時も読んでるよ、他にもあるなら読ませて」となるのだろうが、私の場合は初めて訪れた場所でも興味を持ってしまう傾向がある。そして、今までならば初めてでも即刻書き込みをして「此れからも通います」という旨を伝えたものだった。結果、ことごとく関係は長続きしなかったわけなのだが。
それは当たり前だ。相手の事をよく知りもせずに声をかけるわけだから、後に合わないと思う事も出てくるはず。
だが、今でも私は立ち寄った記事に「興味持って下さい」「好きになって下さい」という記述を見つけてしまうと足を留めてしまう。
それでも昔と違うのは、今では脊髄反射的にコメントを残すという事はないという事。ブックマークをして過去ログを読破し、それで好きになれるかどうかを見極めるようになっていった。

しかし、そうであっても昔のようにはコメントは残せない。そうやってまでも私は相手を傷付けてしまう事があるようなので、此処で「思っているよ」と呟いているだけなのだ。
その呟きが伝わる事もあるが、全く伝わらない事もある。だが、今の私は伝わらなくてもそれでもいいと思っている。