微妙な距離で繋がる相手と長く付き合っていけたら


「Something Orange - 上野千鶴子をフェミナチと呼ぶことは許されると思う。」を読んで。


 注釈をつけておくと、ここでいう「ノイズ」とは人間関係に伴うさまざまな軋轢のこと。現代のオタク男性はそのノイズを避けるためにヴァーチャルな女性を求めるのだ、ということらしい。


 もちろん上野千鶴子先生はオタクが遺伝性の難病ではないから(伝染性の難病ではあるかもしれない)、オタクがこどもをつくらなくてもオタクは減らない。恐ろしいことに、りっぱに恋愛した両親からも、オタクは生まれてくるのである。


 それにしても、きらわれたものだ、と思う。上野にとって女性と向き合うことができない男性など、「いないほうがいいもの」なのだろう。


 しかし、本当に現代の若者がそんなふうに「めんどうくさがりや」なのか、それが原因で人間関係のノイズを避けているのかということは、一考の余地があるように思う。


私も面倒臭がりな人間だ。だが、他者と繋がりを完全に断ち切る事は出来ない。好ましいと思う他者がいれば相手に自分の事も好ましく思ってもらいたい、相手に自分という存在を印象付けたいとも思う。そんな気持ちから、昔は過剰なまでに相手へ接触を持とうとしたものだ。そういう事では面倒臭いとは思わなかった。だが、それ以外の事、興味の対象にならない他者に対しては全く動こうとはしない。
私自身がオタクかどうかは自分では分からないのだが、「オタク」と言われる人々に対する私の印象は、興味が全く無い物に対しては無頓着ではあるものの、興味の対象における執着心や行動力に面倒臭さを感じていないように感じている。だから、そういう点で考えれば、私もオタクと言われても間違いはないかとは思っているな。


ただ、今の私はコメント欄を開放していなかったり、トラックバックを自身で送らないという立場であるので、人間関係のノイズを避けていると言われても仕方は無い。実際、相手との距離を自身でコントロールしているわけである。私も直接人間と向き合う事が出来ない人間という事で「いないほうがいいもの」と誰かには思われるのだろうか。直接向き合う事が正しい事だという世間の見方があるようだが、私はそれに天邪鬼的な思いを感じる。


全て直接的に繋がろうとする事が果たしていいのだろうか? と。


少なくとも私はそれで人間関係に失敗してきたものだった。だからこそ、私は自身を自分でコントロールする事を選んだ。相手との気持ち良い関係を保つ為に。それを一緒に共有出来ない相手とは、恐らく私が好ましいと思う相手であったとしても、繋がりたいと思う相手だとしても、上手く人間関係を築く事は無理なのではないか、と。


微妙な距離で繋がる関係。それが私にとっての最良の位置関係。これからこれが私にとって当たり前となっていき、長くブログを続け、長く関係を続ける事の出来る相手を、たった一人だとしても獲得する事が私の究極の望みなのかもしれない。