誰かの言葉が気付かせてくれる


「23mmはてな日記 他人に自分を決め付けられるのは」を読んで。


私は「分ったように言われても気持ち悪いとは思わない」と書き、その気持ちには偽りはなかった。そして「自分を分ったように思われても平気」と更に書いたわけである。ところが、それに対して筆者は「決め付けられるのはいや」と言っている。そこで、筆者の記事を読んでいて気付かされた事がある。


「平気」と言うよりは「あきらめ」に近いかな?


成る程と思った。よくよく考えてみて「平気」というのは違うな、と。胸に手を当てて思い起こしてみれば「平気」ではない。この私でも確かに決め付けられれば今でも多少はいい気はしないわけであるから「平気」ではないのだ。だが、その「決め付けられた私」をいい気はしないというのは、私にとっては「分ってくれない」ではなく、その私も自分の中にあるのだと気付いてしまうからでもある。だから平気でいられるわけが無い。所謂図星というやつである為に今ではもうそれについて何も言い訳が言えない状態であるのだ。だから、それは「諦め」という感情が一番近いのかもしれないと、筆者の書いた記事で気が付いたようだ。


他人が私の書いた物でなにかを思い綴る。そして、私はそこから「成る程」という記述を見つける。自分の気持ちを上手く形に出来なくてもやもやしていたのが一気に晴れる瞬間は気持ちいいものだ。


筆者には感謝している、有難う。