生き難い世界だからこそ人は強くなれるのではないか?


「23mmはてな日記 「あきらめ」という言葉」を読んで。


筆者は「諦め」という言葉から話を膨らませて更に記事を書いている。筆者が言うように私も今は「諦め」にはネガティヴな思いは持っていない。今はと言うからには昔は持っていたわけである。諦めるという事は私にとっては私自身に対する裏切りだと思っていたからだ。
だがしかし、ある人のおかげで今は「諦める」ということも前進に繋がる行為であると気付かされた。
今の自分が持てる限りの努力をし、それでも叶う事がなく失敗に終わってしまった場合、未練がましくそれにしがみ付かずにすっぱりと諦め、次の目標に向かって前進すること。その時の「諦め」は決して裏切りではない。ネガティヴでもないのだ、と。それは筆者も言っている。


まず「他人に自分を決め付けられるのは、自分にはどうすることも出来ない」という動かしがたい事実(これは、昨日も書いた通り、人の心の動きは変えさせようがないということ)があることを認識して、それを受け入れてしまう。それが出来れば、次にどうするかを考える。自分に出来ることは何か。


そして、筆者は「決め付けない」となったわけであるが、それについては私は少々意見が違うかな。
ただ、筆者の言う「決め付けない」という事は他人に強制するものではなく、自分自身に課したものであるわけだ。だが、私はどうしても性格上相手を「こうである」と決め付けてしまう所があるようだ。しかし、昔よりは断定的ではなく「こうなんじゃないかな」という弱い決め付けになっていっているようだが。これも進歩と言うべきか。(笑)


筆者は人々が決め付けをしないようにすればこの世界は生き易くなると言っているようだが、それについても私は違う意見を持っている。確かに生き易くなる事は良い事なのだろうが、生き易い事は必ずしも良いとは限らないのではないか?
生き難い世界だからこそ、人は強くなれるような気が私にはしているのだ。微温湯に浸かっていては心は強くなれない。全くストレスが無い事も問題があると聞いた事がある。多少のストレスがある事が人にとって良い影響を及ぼすのだとか。そうであれば、生き難い世の中、つまり試練がある方が人は強くなれるのではないだろうか。
勿論、生き易くする努力は必要だ。生き易くする為に全く動かないという事も愚かな事だからだ。それに、幾ら生き易くなればと努力したとしても、完全に生き易い世界など作れないのが本当の所だろうから。


結局は、私も筆者と同じような事を言っているという事か。(笑)