絶望という名の凶器に打ち勝つには


「「で、みちアキはどうするの?」 - 死にゆくあなたへ贈る言葉(は、ありません) - 」を読んで。


そうですねぇ。ぼくが自殺の現場、これからしますよ、というシーンに行き当たったら、まぁ止めはしないけど話はするかもしれないですね。


私は止める事も話をする事も出来なかった。その人を仮にAとしよう。Aが「今から死のうと思う」とメールを私に送ってきた時に私はそのメールを読まなかったのだ。私は毎日メールをチェックしないのでそのメールが送られて来たのを知ったのが二度目にメールが送られて来た時だった。Aが死ぬ覚悟をして私にメールを送ってきたのに私は何もしなかったのだ。Aはどう思っただろうか。


一人ホテルの一室で首を吊ろうとしていた君だった。
酒を飲み、その勢いのまま首を吊ろうとしていた君だった。
今から死ぬとそう書き、それをメールで私に送信し、君は一人その部屋で死と対峙していた。
しかし、私は次のメールが送られてくるまでそのメールを見ていなかった。
君がまさに死のうと決心し、私にメールを送っていた時、私は一体何をしていたのだろう。
分からない。思い出せない。情けない。


だがAは死ななかった。それは私以外の誰かに「死ぬな」と言われたからだった。Aは何人も知り合いにメールを送信していたのだ。
素直に喜んだよ。二度目に送られてきたメールに、君が「生きるよ」と書いていたのを見て。
冷静になって考えてみれば「ふざけんなよ、試したのかよ」と怒鳴ってもおかしくない茶番劇だったのだが。
勿論、君はふざけてなどいなかった。
恐らく本当に死んでいてもおかしくなかった状況だったろう。
だが、君の元には沢山の言葉が届いた。


「死ぬな」と。


私は送ってあげられなかった。だが、どうだったろう。今まさに死のうとしていた君に「死ぬな」とメールを送っただろうか?
分からない。無我夢中で送っていたかもしれない。それは分からない。過去の出来事だ。過ぎ去った事だ。想像の域を出ない。
どんなに大勢の人に「死ぬな」と声をかけられても死ぬ奴もいる。しかし、君のように死なない人もいる。ただそれだけの事なのだ。


その時の君のメールを何度も読んでいるよ。
誰かの裏切りで死を選ぼうとした君よ。絶望という凶器を突きつけられてしまった君よ。
私がどんなに君の「裏切られ絶望したから死ぬよ」という言葉で深く深く傷付いたか知らないだろう。
私もまた誰かを裏切ってしまった人間だったから。
君がその時、本当に死んでしまっていたら、私は更に私自身を許せなくなった事だろう。
私が裏切った人もまた君のように死を選んでしまうのではないかと思い、己の存在を許せなくなっただろう。


君よ。今でも元気か?
だが、今もし君が死んだとしても、私は当時のように苦しむ事はないだろう。
私はそうやって一人一人心に距離を置く事で、何かがあった時に引き摺られないよう準備をしている。
私も長いか短いか分からぬ生を、大切な人達を悲しませない為に生きていきたいからだ。そして、michiaki氏がコメント欄で「人に何かを教えるなんて結局できないんですよ。やってみせるしかない。それを実際に生きてみせて感じてもらうしかないわけです。」と書かれているように、私も楽しく生きる事で「生きるのもいいかもしれない」と大切な人に感じて貰いたいと思っているのだ。
楽しい事ばかりではないこの世だが、しかし、逆に楽しくない事ばかりではないんだと、楽しい事だってあるんだと当たり前の事を示し続けようと思っている。


私は楽しく生きるよ。私にとっては絶望という凶器に打ち勝つ物は「楽しいと思う心」なのだ。そして、今まで生きてきて今が一番楽しいと感じている。だが、そんな私を見ても死ぬしかないと言うのならもう何を言ってもその心を変える事は出来ないだろう。だから、どうあっても人生を楽しむ事が出来ぬ、死ぬしかないと言うのなら私も止めない。だが、もし私にまた誰かから「死ぬよ」とメールが送られてきたら、私の為に生きてくれと言うだろう。今度こそそう言うだろう。氏のコメント欄でも誰かが書いていたが、何時でも本当に死んでしまう人は何も言わずに突然死んでしまうのだ。そういうものなのだ。