私にとって現実とは邯鄲の夢でしかない


「404 Blog Not Found他人を見下す(バワ)カ者たち」を読んで。


「アンリアル」が「リアル」を見下し始めた理由は実に簡単。「リアル」がつまらなくなったからだ。いや、もう少し正確に言うと、「面白いリアル」へのアクセスが難しくなったからだ。


粗悪なもの、良くないもの、暴力的なもの、そういったものから子供達を守ろうとする大人の気持ちも分からないではない。だが、余りにも極端にそういったものを遠ざけてしまった為に人は肉体的にも精神的にも弱くなってしまったのではないだろうか。守られる事に慣れ切ってしまった人は己の力で前進しようとは思わなくなる。誰かが守ってくれる、きっと誰かがと祈るばかりで自ら動こうとはしない。祈ったとしても誰も何もしてはくれないと言うのに。
しかし、私もその守られるばかりで自ら動こうとはしない人間だ。これが駄目なんだと分かっていても己から動く事が出来ぬ。それ程、この呪縛は強い。これに打ち勝つ為には確かに「面白いリアル」が必要になってくるのだろう。


それが証拠に、「生の面白いもの」を見せると、仮想的優越感はきれいさっぱりなくなる例を私は数多く見て来た。自分自身も含めて。生演奏、生講義、そして生本番:-)。一度生の味を味わってしまうと、清潔で安全な仮想では物足りなくなってしまう。いつか五感をすべて仮想できるようになるかも知れないが、今はまだその日はほど遠い。視覚と聴覚という、人の脳に強く訴える部分の仮想化が先に進んだおかげで、大脳皮質を「だます」のはかなり簡単になったが、なかなかどうして、脳幹にまで訴えるのはいまだに生が一番「安上がり」だ。


私も「生の面白いもの」を経験した事が無い訳ではない。リアルでの他人との触れ合いで、それまでに感じていた世界観よりももっと楽しい世界があるのだと気付いた事もある。しかし、結局は再び仮想世界に舞い戻ってしまう。今の私は「面白いリアル」よりも矢張り「面白いアンリアル」に夢中である。脳内で繰り広げられるそれらは、かつて感じていた「生の面白いリアル」よりも面白い。つまり、このネット世界の事である。
よく、バーチャルはリアルの延長線上であると言われるが、その意見に半分は同意しても、私はリアルとバーチャルは切り離して見るがいいと思っている。結局はリアルの自分としてネット上で活動していないからそう思うのだ。勿論、ネット上の私を動かしているのはリアルの私だ。だがしかし、リアルの私をそのまま出しているわけではないということで、この私も仮想である。仮想とはいえ、嘘の自分ではないがね。確実にこの私もリアルの私の中に存在しているのだから。


dankogai氏が「回線を通してやりとりできるものはリアルの本の一部だ。しかし一部とはいえリアルなのであり、そこが重要なのである」と言われているように確かに重要なのだろうが、私にとってはリアルが絡んでいるからといって、回線を通してのやり取りはリアルというより仮想であるという気持ちが強い。どうしてもリアルとしては考えられない。ただ、リアルとは思えないからといって、恥知らずな行為をするつもりもないししているつもりもない。尤も私がそう思ったからといって、他人から「お前は恥知らずだ」と言われる場合もあるだろう、礼儀知らずであると言われた事でもあるしな。


私は「生の面白さ」を味わえば味わうほど、妙な儚さを感じてしまって心から楽しめない。そのような想いを完全に拭い去れるような「生」を一度も感じた事がない。このまま私は邯鄲の夢としての現実しか感じる事は無いのかもしれないな。だがそれでもいいと思っている自分がいる限り、私は何時まで経っても「生の面白さ」を心から楽しむ事は出来ないのだろう。