本音とはとても厄介なもの


「北の大地から送る物欲日記 - 人はそれぞれ違う考えだから面白い」を読んで。


ウェブで日記を書き始めた頃、私はどの様な意見・考えでも肯定出来ると思っていた。「それは違うだろう」とほとんど思った事がなかった。だが、最近になって気が付いたのだが、それは違うな、と。


 「肯定すること」ってのは、自分と同じ考えの人をみつけたときに、それに同意したりうなずいたりする意思表示をすることで、その考えをより大きなものにしていくこと。


「受け入れること」ってのは、自分の考えとかは置いておいて、現状をありのままに受け止めること。違う考えの相手も、どうしてそう考えるのかってところまで含めて受け止める。「私はこういう考えでこう思うけど、あなたはそういう考えでそう思うんですね」


つまり、hejihogu氏が言われている言葉を借りて言うならば、私は他人の考えをただ受け入れていただけなのではないか。
相手の考えも「確かにそれもありだろう」とは思うのだが、それでも矢張り私は「こう思う」と心の底では思っていると言う事に気付いたのだな。


あくまで自分と相手の意見を両方同列で考えてみて、相手の言うことの方が正しいと思ったらそっちを採用するってだけ。


以前の私は、一旦相手の考えを受け入れ「そうだね」と上辺だけの頷きをしていたように思う。だから何時までも心にしこりが残り、それが時間が経つにつれて膨れ上がり、結局は日記でそれを書いてしまう。矢張り納得が出来ない、と。そのせいで相手との関係が拗れてしまった事もあった。
今でもその傾向はあるが、昔よりは自分の本音という物を取捨選択で見せるようになったかな。


本音とは厄介なもので、堂々と見せる事が出来ないのなら黙ったまま何も言わない方が人間関係に置いては大事なのではないかと私は考えるようになっていった。それが私なりの配慮と思っている。


【追記】yas-toro氏が記事上げをして下さった。


「明日は明日の風が吹く - 本音とはとても厄介なもの(from 歓楽叶わぬ納骨堂庭園)」


 相手の考えを否定しまくったり、潰しにかかったりとかしては駄目だけど、相手の考えに対して「私はこう思う」と伝えても良いと思う。特にネットでは。書き手の姿が見えないこの世界では、そういう発言がその人の(ネット上での)形を作っているのだと思うから。その発言や考え方、それが○○さんというネットでの姿・形なんだと思う。


私の正直な気持ちでは、否定しまくるのも別に構わないと思っている。否定したからといってどうなるものでもないからだ。誰かに否定されたとしても、自分は自分だという意思さえしっかり持っていればいい訳である。それで勝手に自滅してしまうのは誰でもない自分自身のせいであるというのが私の考えであるからだ。
ただ、故意に潰しにかかるというのは流石の私も駄目だと思っているがね。潰すのも有りだろうという人間こそは屑である。しかし、潰そうとしてそれを成し遂げる事にどんな意味があるのだろう。その潰そうとする心理というものを純粋に知りたいとも思うが。


さて、私は他人にどう見られているのだろうか。


【更に追記】 kira-la氏のコメントがhejihogu氏のブログに残されていた。はてなでは退会処理をしたらコメントは消えるものとばかり思っていたが、そうではないのかな。それともkira-la氏はIDはそのままにしているのだろうか。