時を超える郷愁

授業中に開けられた窓の外から離陸する旅客機の音。夏の終わりにどこからともなく聞こえるひぐらしの鳴き声。同じく夏の終わりに遠くから聞こえる空気砲の音。寒い冬にベランダに出ると風の向きで遠くの海から聞こえてくる潮騒。それらの全てが当時の私にとって胸が痛くなるほどの郷愁を誘ったものだった。それほど長く生きてはいない、せいぜい15年くらいの子供が、どうして郷愁を感じるのか、当時は気にした事もなかった。

 

昨夜は夜遅くにベランダに出たところ、空にオリオン座が見られた。子供の頃、夜中の窓からそういった星空を眺めては何時間も見つめ続けたものだったが、そういったものに対しても音ほどではないにしても郷愁を感じたもので、当時はその郷愁も、憧れという気持ちを持てあましたゆえの感情だと思っていた。

 

だが、現在、そういった聴覚、視覚では郷愁を感じない。いわゆる年を取ったから感覚が鈍ってきているとは言われるだろうが、最近、私はそうじゃないのではないかと思うようになった。子供の頃に郷愁を感じたのは感受性が鋭いのではなく、後にそれらに接した時のその時に感じる郷愁を時を超えて感じているからなのではないか、と。だから、今現在の私は何も感じず、子供の頃の私が代わりに感じていたのではないか、と。

 

馬鹿げた話だと私も思う。だが、私はそれを信じたい。感覚や体力は年と共に衰えていく。それはどうしようもないくらいの現実であるとしたら、自分の鋭いはずだと信じている感性をどこかで発揮したい、発揮させることができると念じた結果、子供の頃の私は、それほど未来ではない将来の自分の代わりに郷愁を感じていたのではないのか、とな。

 

恐らく、私自身の終わりも近づいているのだろう。そんな気がしているよ。