透明な感情

あの時、死ななかったからこそ今の私がいる、というのは周知の事実だ。死ななかったからこそ、その時までに知ることのなかったあれやこれや、知ったことで知れたことを幸運だったと思えることはこの上なく幸せなことなのだろう。だが、同時に、あの時、死んでいたら、その後に経験したくなかったことを経験させられてしまうこともなかったのにということもまた事実だ。つまりは、幸せと不幸せのどちらかがどれくらい多かったかということが肝になってくるのだろう。とはいえ、そのどちらかが勝っているかどうかは誰にも決められない。死ぬ瞬間に自身が決めることだからな。で、その考えで今の自分の気持ちを考えたら、親には申し訳ないとは思うが、私は母親の胎内で死んでいた方が良かったのかもしれないと今は思う。今までにそれなりに幸せで、そしてかなりの重さで不幸だったと私は感じているからだ。私の中では不幸な記憶が多く残っていて、どうしても自分の生に価値が感じられないのだ。こうやって正直な自分の気持ちを言えるようになったのも、この気持ちを絶対に知られたくない人がこの世からいなくなったからだと思う。それまでは、いろいろあったが、自分は生まれてきて良かったと思うと公言してきたのだが、やはり、どうしても、私は生まれてこなかったほうが自分のためにも誰かのためにもよかったんじゃないかと思ってしまうのだよ。生まれるということは、いずれは必ず死が待っている。死にたくない。永遠に若く健康で生き続けたいと願っている私にとって、死とは不幸なことだ。最大の不幸だ。その前にはどんなに素晴らしい幸福であっても色あせる。こんなに不幸なことはない。それならば最初からこの世に存在しなければよかったのだ、と。こんなことなら、今まで私にもたらされた幸福も経験しなければよかった、とな。

 

もっと大切なものを手にするために努力する、か。ここまできたらもう私はそんな努力はしたくない。ひとつひとついろいろなものを捨てていき、痛みも絶望も何もかも感じないように手放していき、最期は何も感じず、透明な感情のまま、安らかに死んでいきたい。それだけを今の私は心から願っている。