別れの酒を捧げよう


「ネットの人が消える感覚が怖い(via まなめはうす) - 明日は明日の風が吹く」を読んで。


 昔から、見に行っていたサイトがある日突然更新されなくなってたり、消えてしまってたり……寂しいんだよね。


yas-toro氏の書かれたこの記事の後だったろうか。毎日ではないが時々読ませて頂いていたブログが突然全記事を削除してしまった。ブログ自体はそのまま残っているのだが、私は残念ながら最後の記事を読んでいなかった。いきなりの削除だったのだろうかと少々気にかかってはいたのだが、あまり深く相手に踏み込むのも良くないだろうと言い聞かせていた。


yas-toro氏の記事とそれほど時が離れていない頃、twitterでmichiaki氏がこのような発言をしていた。


誰かが見てくれてるかもって希望がなぐさめになるのであって、実際に見られてる必要って全然ないよね。


全記事削除してしまった方は誰にも見られない物を書いていたわけではなかった。少なくとも私の書く物より多くの人々に読まれていた筈だ。私には書けないような文章を書いていた。だが、その方は多くの人間に読まれている事に慰めを見出していたのかどうかは怪しい。書かれた物に賛同されても批判されても一貫して何時も不機嫌な文章を書いていたようだからな。だから、私はこの方は何が楽しくて文章を書いているのだろうかと不思議に思っていたものだ。


ブログを書く事で自身が最低な人間だったのだと思う事は勝手だ。私の友人にも君と同じ事をほざいていた奴が居る。それ自体は否定しない。自分がそう感じるのだったら、それはそうなのだろう。君は、そして友人は最低なのだろう。好きにそう思うがいい。だが、自身がどれほどその様にネガティヴに自身を捉えようとも、君を救いたいと思っていた者は全くいなかったわけじゃない。何処かに一人は居た筈だ。私が、己を最低だと吐き捨てる友人を何とかして救いたいと思っているのと同じで、な。伸ばした手を取ってくれる誰かは君にも居るのだよ。それを忘れるな。絶対に忘れるんじゃないよ。


私は寂しいなどと思わんよ。思うものか。絶対にな。もう二度と読めなくなるとしても、私は消えていってしまった人々の事は忘れないのだからな。忘れてしまった時、初めて私は寂しいと思うからだ。何が寂しいのか訳がわからないのに寂しいと思ってしまう時、その時がその人を忘れてしまったという事なのだ。誰かはわからぬが、私の心から消えてしまった誰かを惜しんで私は自棄酒でも飲んでしまうのだろう。誰かは知らぬその人に別れの酒を捧げる為に。