この世で最も幸せで最も不幸な人間


雨の朝にはこの歌を歌いたくなる。



「最初から希望がなければ失う辛さを感じなくてもいいから」と君は言っていたね。


何も持っていなかった昔、この世で一番不幸なのは私なのだと思い込んでいた。愛する者は私を一瞥もしてくれない。欲しいと思うものは他人が横から奪ってしまう。微笑んで欲しい人は別の人に笑いかけ、いつも私は独りで孤独だった。誰も私を理解してくれない。誰も私に同情もしてくれない。誰も私を愛してくれない。私には何もない。私自身しか私にはなかった。だから、私は私自身を愛するしか術はなかった。だがしかし、何時の日か、私は大切なものを手に入れた。やっと孤独から開放され、私は誰よりも幸せになるのだと思った。だがそれは違っていた。


何時かこの幸せは私から無くなってしまうのではないか。何時かこの大切なものは私から失われてしまうのではないか。その時、私は果たして正気でいられるだろうか。狂ってしまうのではないか。いや、狂ってしまうのならまだましだ。狂ってしまった私は恐らくもう人間としての思考能力は無くなってしまうだろうから。むしろ狂ってしまった方が幸せなのかもしれない。だが、そんなに都合良く狂える筈もない。最も恐ろしいのは、狂えない頭で失ったものに対する未練を引き摺って生き続ける事だ。そんな事は考えたくもない。


私は一度大切なものを失った。思い出すだけで震えがくる程の恐怖を味わった。よく此処まで生きて来られたと思う。だが、もう一度あれを経験する根性は無いだろう。とは言え、狂ってしまえる保証も無い。とすれば、後は自らを滅するか、或いは、何とかして新しい大切なものを見つけるしかない。しかし、今の時点では、今の大切なものを失う事は考えるだけで死にたくなる。それくらいに大切なものなのだ。その気持ちは誰にも分からないかもしれないが、それでも誰かは共感してくれるだろう。


私は思うよ。何も無かったから不幸だと思い込んでいた時代に戻りたいと。愛も希望も愛しい思い出さえも無かったあの時代が、如何に幸福な時代だったのか、今の私はそれを痛い程感じている。何も無くても生きてはいける。だが、人が生きる希望を手にした後、それを失ってしまった時に如何に脆く崩れ去っていくのかを知っているのは、孤独だった人間が孤独ではないと知った者だけだ。知らない事は幸せだよ。知らない方がいいよ。本当は誰も孤独なんかじゃないんだと知る事は。誰も知らない方がいい。知らない方が良かったよ。本当に。私は知るべきではなかったんだ。自分にも幸せが掴めるのだと。永遠に知らないまま死んでいくのが、私にとって本当の幸せだったのかもしれない。だがもう遅い。私には決して失いたくない大切なものがある。もう遅いんだよ。私はこの世で最も幸せで、最も不幸な人間なのだ。それは誰にも理解出来ない心境だと思うよ。


君よ。私と同じく幸せを掴んだ君よ。夢を見たかい?愛しい人の夢を。二度と目覚めたくない夢を。君はその夢を抱き締めて永遠に微笑むだろう。私はその微笑みに永遠を垣間見る。永遠はあるよ。あるから安心して眠るがいい。この世で最も幸福で最も不幸な私が子守唄を歌ってあげるよ。風になって君の眠りを守り続けるから。だから安らかに眠るといい。