私は鈍感な人間なのだよ


「オオカミの遠吠え通信 「鈍感」よりも「過敏」な方がいい。」を読んで。


“誰かを傷つける為に”言葉を発する人などむしろ少数で、“悪気のない言葉”が相手の心を容赦なく抉るのが現実なのだが。


少数か。確かにそうなのだろうな。それならば、その少数である筈の「“誰かを傷つける為に”言葉を発する人」に出会ってしまった私は不幸だっただろうか。それとも「“悪気のない言葉”」で時に傷付いたと思い込んだ私は不幸だっただろうか。そうだな。そのどちらもその瞬間は不幸だと思っていたよ。悪意の無い言葉の場合は、それでも我慢は出来たが、悪意を持って言葉を投げ付けられた時は、我慢ならなかったが、それでも私には何も出来なかったし、何も言葉を返す事は出来なかったな。
相手は、私を「人の悪意など信じていないのだろう」と言い切っていたが、その言葉自体も私を本当にそう見て言っていたのではないのだろうな。そう言えば、私の心が傷付くと分かっていて言っていたようにも今なら思える。


私は他人の裏を読めない人間だ。いや、読めないではなく、読み過ぎる人間なのかもしれない。とは言え、その読み過ぎが全く見当違いの読みである事がほとんどなのだったと思う。こんな私である。過敏とは言えないだろうな。過敏であり、過敏であればこそ、相手に不快を感じさせない人間になりたいとも思うよ。ただ、それを親しい友人は受け入れてはくれないような気がしている。


この記事を書いて思ったのだが。ここ数日の私はネガティヴな想いに囚われているようだな。どうも前向きな考えが出てこない。こんな時はこの日記を読むといいかもしれない。


「べにぢょの日記」


一行だけでも、か。それならば…。


「もう直ぐ夏が来る」