納骨堂に綴られた想い


「すもつくれん - Co・Memont -MG- - 同じ土俵に立つこと」を読んで。


当初の自分が思ったことや話題とズレを感じることができ,
さらにそのズレを修正できる人は,どんな会話でも手ごたえのある会話ができる人だと思う.
こういった人は結果的にコミュニケーションと言われる能力が高いと思う.


でも,そうじゃない人というのは,
ズレに気がつかない為,意見を伝える事のみに終始してしまう.
結果ズレっぱなし.
相手の話を受けてそれを取り入れて話す耳を持てない.
結果として,相手の意見が分らないから意見を主張する.


コミュニケーション能力が高い方が良いと一般的には言われる。では、コミュニケーション能力が低い事は悪い事なのだろうか。悪い事なのだろうな。低い事で、相手が不快になったり、いらついたり、厄介な相手だと思われたりするのであれば、それは悪い事なのだろう。
私は、最近になってやっと自分が誰かと意思の疎通をしたいとは思っていないのだなと気が付いた。相手との会話がずれてしまう事に気が付かず、相手に不快な思いをさせてきたらしい。
こういった人間は一部の相手には理解されないだろうし、相手にもされないように見受けられる。私はそういった扱いは我慢出来ない人間だった。だが、我慢ならないと思うのなら、努力してコミュニケーション能力を高めればいい。そこで私も努力した。他人には「それで努力したのか」と言われるかもしれないが、自分なりに努力はしたつもりだ。
だがしかし、相手に合わせよう、理解しようと思えば思うほど、空回りする対話。私は対話する事を何時しか放棄していった。そして辿り着いたのが此処だ。


此処は納骨堂だった。そうだったのだ。私の屍が横たわる場所。過ぎる日々の私の思考の断片が眠る場所。最初から人々と同じ土俵に立ってはいなかったのだ、私は。ならば私はただ淡々とかつての想いを綴っていけばよい。そうすべきだった。そうでなければならなかったのだ。