読解力が欲しい


「「読解力」で人格までをも判断される悲劇 - 日々是自己主張」を読んで。


 さらに僕が気になるのは、相手が意図することを正しく読む能力と相手の人柄や性格を正しく見抜く能力とがネット上ではどうも「読解力」という言葉ひとつで混同されているような気がすることである。あくまで文章の書き手がネット上に出してくるものは、書き手が任意に選択して出してきているものであり、そこから相手の人格や性格、ひいては人生の背景までをも見通すということがそう容易であるはずはない。出されてきたものを書き手の意図どおりに読み取ったところで、そこで意図されたものが相手の人格や性格と合致するかどうかまで見極められるのでなければそれらを正しく見抜いたことにはならないだろう。


私の人格や性格は恐らく此処を見ている方々にとってある一定の人格・性格として理解されている事だろう。文章にはその人らしさが出るとは言うが、私のこの文体は確かに私の中から生まれたものではあるとはいえ、正確に私を表しているとは言えないだろうからだ。しかし、それは私がその様に意図して書いているからであり、私は自分について誰かに誤解されようが何とも思わない。私については好きに語ってくれてもいいと思っているよ。
そうだね。読解力は文章から筆者の人となりを読解する事ではない。あくまで筆者が何を言いたいかを解く能力なのだろう。そして、私には本当にその読解力が無い。読解力が欲しいと思うよ。