注目を浴びても浴びなくても私の書いた物には恥ずかしい物は無い


「『斬(ざん)』 時に自分の記事が必要以上に話題にされるのは恥ずかしいことなのかもしれない」を読んで。


どういった記事が誰にとって素晴らしい記事なのか。そんなものは誰にも分かるわけでもなく、判断も出来ないものだ。注目を浴びるのは注目を浴びるだけの価値があるのだ、どんな記事であろうとも。私はそう思っている。罪悪感など感じる必要もない。むしろ、罪悪感を感じる事を恥ずかしいことなのだと言われれば、注目を浴びて素直に喜ぶ者は非難されていると思いはしないか?
運が良い事も込みでその記事は注目されるに値するものなのだという考え方が私は好きだ。もっと自分の書いた物に対して堂々として欲しいものだな。自分が書いた物には恥ずかしい物は無いと言い切る誇りを私は持ちたい。


と、此処までが先に読んだ記事に対する感想。souryuusei0401氏は更に「かめのこだまし…? - 今日の更新:2006年12月27日」でこう書いている。


罪悪感ってのは、ちと言い過ぎてる面は確かにあります。適切な語彙が浮かびませんでした。後ろめたいとか、申し訳ない気持ちってのですかね。だから羞恥の根源的意味合いです。結局は不可抗力でしかないので仕方ないんですけどね。で、それを表明するってことじゃなくって、思ってしまうってことです。これは、思ってしまうんだから仕方ない。性格的な問題ですね。


性格的な問題で、如何しても「恥ずかしい」と思ってしまうという事か。とすれば、注目されて喜び、恥ずかしいとも思わない人間にとっては、非難されていると思ってしまうのもまた性格的な事なのだから仕方ないとも言える。性格だから仕方ない、か。それは言い訳でしかないよな。出来ればそういった恥ずかしく思う気持ちを何とか無くしたいと思わないものなのだろうか。勿論、氏が別に直したいとも思わないと思っているのなら、直す必要も無いのだが。私なら自分が嫌だと思う性格は何とかして直したいと思うよ。だが、たとえ他人が「直せばいいのに」と言ったとしても、自分が直す必要は無いと思ったら気が変わるまでは直さないがな。