負の感情を出さずに書く道を選んだ


「Slow Jamz - 「見られている」意識」を読んで。


実際のところ「クネクネ」したはてなユーザーが一体どこまで演じていてどこまで本気でものを言っているのか知らないけれど、「見られている」という意識をもってコミュニケーションを公開するというのはこういう風にすれば公開する意味が出てくるかなあと勝手に思う。


yama_r氏は「はてな劇場」を繰り広げているという言い方をしていたが、そんな人間ばかりではないだろう。尤も私に限りはキャラを作り上げて文章を書き、他人と距離を置いたコミュニケーションをしているので、私に対しては「はてな劇場」で「xura」という人物を演じているのだと言われても致し方ないかと思っているが。


「見られている」を意識しているよ。だからこそ此処までは書くとか、そのネタは取り上げないとか、そういった自分だけのルールを設けて此処で私は書いている。ふらりと訪れたブログだとしても、私はそこの管理人が不特定多数に対して「如何なんだろうか」と呟いているのに反応して記事を書いてしまう事もある。だが、ネタによっては書きたいと思ったとしても書けないものもある。もしかしたら、誰かは私に期待をしてネタを振る事もあるだろうが、それが私自身が課した制約に引っかかるものであったとしたら絶対に書かない。
誰かにトラックバックを送るなどして積極的に私のブログを宣伝しているわけではないが、それでも誰も見ていない場所で書いている訳ではないのだ。それなりに「見られている」を意識しているからこそ、この様な書き方をしている訳だ。


「見た目」が「普通の人」と違うという事で差別的な意識を持ってしまうのは仕方ないことなんじゃないかなあと最近は思う。ただこの社会で生きている以上はそういう差別的な意識を行動や言動に表してしまえば糾弾されるのも当然なわけで、だからこそそういうのは内輪に秘めて、こういう「友人」とだけという狭い「コミュニティ」で共有してればいいと思う。差別意識を持つこと自体は規正することはできないんじゃないか。


私もそう思うよ。氏は差別意識の事を言っているが、内輪に秘める事は差別意識だけではない。自分の中の負の感情というものを表に出さないという事にも言えるのじゃないかな。負の感情だけでなく正の感情にしても出し過ぎると鼻に付くものだ。出す事が悪い訳ではない。どちらの感情も思う侭に出す事で人々の共感を得る場合もある。だから、私も私とは違うブロガーに惹かれる傾向があるのだ。感情を迸らせた文章に惹きつけられるから。だが、そういったブロガーはなかなか長続きがしない。全てがそうだとは言わないが、長続きせずに閉鎖になってしまうブログが多いように私には感じられた。
それもあって、私は「見られている」事を意識して、余り感情を出さない文体で書こうと思ったのだ。
差別意識を持たない人間はいないと私は思う。それは人間が感情を持つ生物だからなのではないか、と。だから、私にも感情はある。寧ろ人一倍感情の起伏が激しい人間だと自認している。だが、それをそのまま出す事はしたくない。勿論、感情的に文章を書く人間が嫌悪される事もあるとしたら、本来の性格を曲げ、感情を抑えて書く事にも嫌悪感を抱く者もいるだろうがな。


しかし、私はこの道を選んだ。私にとっては、これが一番いいのだと信じているよ。