私は心の声に従って行動するだけだ


「とりもなおさず はてな出張所 - swell space」を読んで。


moppara氏は私が「見返り」について大袈裟に捉えているのではないかと言っているわけであるが、私の書いた記事でそう感じたのならば仕方ない。だがしかし、私は大袈裟に捉えているつもりは無かった。どちらかと言えば、見返りなどというものはどうでもいいものであり、そんなものを考えずに居れば要らぬ争い事にならないような気がすると私は考えている。そういう事で、私は見返りを求めない事が重要であると書いたつもりだったのだ。それが伝わらなかったのは偏に私の文章能力が無いからであろう。


 例えば、毎朝、通っている道があるとして


 そこを通っているのは何故か?と考えた時に、いつも、挨拶をしてくれるおじさんがいて、嬉しいから、という、理由にもなっていない、理由があるとする


 それも、その道を通る「見返り」を期待している、ということにならないだろうか?


moppara氏が、それを見返りとするならば、それが氏の見返りに対する見方なのだろう。だが、私にはそれは見返りとは思えない。
誰も嫌な思いはしたくないものだ。気持ちのいい対応をされる事を誰も嫌がる者もいない。だから、氏が言われるような事は無意識の内に皆が取る行動だと思うよ。私なら何時も吠える番犬のいる家の前を通ろうとは思わないし、笑顔の可愛い女性が毎朝挨拶してくれる家の前を好んで通る。(笑)
それは私にとっては見返りなどではない。心を持った人間、いや、動物でも心許した者に寄ってくる事を考えれば、生きている生物は好んで困難に飛び込むのではなく、只管気持ちの良い状態を求めてしまうものだと私は考える。


私にとっての「見返り」とは、打算に尽きる。そこには生きとし生ける者の普遍的な欲求ではない匂いを私は感じる。それはそれで人間らしいとも言えるのかもしれないが、私はそれが嫌いであった。嫌いであったのだが、私もかつてはその様な見返りを求めていたのだ。それに気付いた時に、私は虚しさを感じた。見返りで繋がった関係は脆い。相手はそんな目で見ていなくても、私が見返りで相手に対して行動していたわけだ。当時は気付いていなくても。だが、相手との関係が危うくなった時に、私は気付いてしまった。私は相手に見返りを求めていたんだと。それに気付いてしまった私は、激しい後悔と嫌悪に苛まれたよ。


moppara氏は「情けは人のためならず」という言葉が好きらしいが、この言葉は私も実はつい最近まで間違った意味で解釈をしていたのだ。


「情けは人のためならず、めぐりめぐって己がため」


己の為に行動を起こすとろくな事にならぬ。その気持ちを捨てぬ限り、私には平穏は訪れないと気付いた時、私はこの言葉が嫌いになったのだよ。
だから、私は見返りはもう求めない。勿論、それを誰かに「そうしろ」と言うつもりもない。私の見返りの捉え方が正しいとも思っていない。ただ、私は私の考える「これでいいのだ」という心の声に従っているだけに過ぎない。各々が心の声に従って行動すれば良い事だからな。


これからも、同じ過ちを繰り返す


 感情を、ぶつけることの、何が悪い?


 そのために、ブログを書いて、恥を掻いて


だから、氏が感情をぶつける事を悪いとは私は思っていないよ。氏が私の不変さを微笑ましく思って下さると言うのなら、私もまた氏の行動を微笑ましく思って見ているのだから。氏の好きなように行動すればいいと私は思っている。


【追記】moppara氏が「とりもなおさず はてな出張所 - ever after」を書いて下さった。


「見返り」という言葉がどうしても氏の言われる「功利主義」というものを想像してしまう私ではあるのだが、恐らく、それは只の言葉の持つ印象だけであって、言葉自体には罪はない。罪があるとしたら、その様な想像をしてしまう私にあるのだろう。私は自分が良い人間ではないと分かっているので、他人に優しくしたいと思うのも、優しくされたいと心の底では思っているからなのだろうと思っているのだな。そして、それを自覚するのがとても嫌なのだ。


 しかし、話は少し飛ぶのだが、自分は、人の感情や行動は、連鎖している、と考えていて


 人に取った行動や、与えた感情は、直接・間接を問わず、跳ね返ってくるし、自分の取った行動が、思わぬ人やものに、影響を与える


 同じように、誰かの善意や悪意も、自分に影響を与え、今、自分が幸せでいられるのも、誰かの善意のお陰だ、と思う


これは私の考えなのだが、善意の場合は、それがそのまま返って来ない場合もあると。だが、悪意はほとんど自分にそのまま戻ってくる気がする。私も過去、誰かに対して向けた悪意というものがあった。そして、それは何時も私に返ってきたものだった。
だが、しかし、待てよ。(笑)
よく考えてみたら、善意の場合も見える形としては返ってはこなかったが、満足感を感じることはあったな。満足感を感じるという事は、自分は幸せなのだと思う事でもある。なるほど、そういう事か。
私は見返りという言葉は使っていないが、確かに私も自分を救うのは最終的には自分しかいないのだという考えであるから、氏の言われている事は結局は私の考えと同じという事なのかもしれない。


そういう事で如何であろうか?
またしても私は曲解をしているのかもしれないが。(笑)