私の叫びは届かない


「23mmはてな日記 「一時の感情」について」を読んで。


僕にとっては、「人を殺してはいけない」は倫理ではなくて、「俺を殺さないでくれ」という願いと、「俺は人を殺したくない」という(また違う種類の)感情を、別の表現で言い表した言葉なんです。


私は他人が誰かを殺したいと言っていても、それに対して「殺すな」とは言えない。同じく自殺に関しても「死ぬな」とは言えない。昔は言っていた。「殺すな」「死ぬな」と。それは、その人が私にとって大切な人であれば犯罪者や死人になって欲しくないからである。だが、それだけじゃない。もし、その人が自分の家族であったとしたら犯罪者の家族と指を指されるのは私なのである。自殺したのが家族ならば、助けられなかった不甲斐ない奴と罵られるのは私だからなのである。自分の事しか考えていないのかと言われても、それが事実なのだ。そして、私も殺されたくないし死にたくない。だから「殺さないでくれ」「死なないでくれ」と声にならない叫びを放っているのだ。その叫びを聞かせたい相手に届かぬと分かっていても。それでも叫び続けている。殺さないでくれ、と。
しかし、その叫びはたとえ届いたとしても相手の気持ちを変えるまでには至らないだろう。だとしたら、私はこう言うしかない。


殺したければ殺せ。だが、殺したのならきっちり罪を償ってくれ、と。


この記事関連でaozora氏の「Tritsch-Tratsch - 公共性と個人的感情」を読ませてもらった。


沈みかけた船で数人しか救えない場合迷わず愛すべき人を救うというその「一時的な感情」は固有のもので人類にとって普遍かつ共有の感情とは限らないのです。


記事に書かれている事のほとんどが同意なのだが、この言葉は特に強く同意する。中にはいるはずだ。助ける人間は有益かどうかを考えて助ける者もいるはずだと。それが人間というものなのではないか。あらゆる可能性を秘めた種族。だからこそ、殺すだの殺さないだの物議をかもし出すのではないのか。私はそう思う。