記憶の中で生き続けるその人達とたとえ巡り合わずとも


「明日は明日の風が吹く - きっと誰か一人は読んでくれていると信じて(from 歓楽叶わぬ納骨堂庭園)」を読んで。


文章を読むのが好きであり、本漬けでありながら、何も書かないという事は私には信じられない。文章が好きならば自分から書きたくなるものではないのか?
だが、ここで考えてみる。私の場合は読む事は好きであったが、読むだけで満足が出来ない子供であった。書かれているものに感動するのは当たり前にあったが、それだけでなく、書かれている事に不満を抱く事もあったからだ。


「何故こんな風に話を進めるんだ?」と。


今にして思えば、プロに向かって何と不遜なものよと自身でも思うのだが、子供の頃は世界は自分を中心に回っていると信じて疑わなかったのである。勿論、それは私だけに限りだが。そんな生意気な子供が「自分で書いてやるんだ!」と意気込むようになっていくのは自然な事ではないかな。


だが、yas-toro氏が現在毎日ブログを書き続けている事が、私の例と同じであるとは思っていない。それは氏が書いているものを読めば分かる事である。私は自己中心的なものしか書けないが、氏は配慮深い記事を書かれているからだ。それは氏がコミュニケーションを大事に考えているからだと推測する。


 でも、やはりパソ通がきっかけなんだろうと思う。自分が思う事を口に出して話すのではなくて、文字にしてそこに書いていく。それを誰かが読んで、その人の思う事を書いてくる。その繰り返しでコミュニケーションが成立する。それが楽しくて仕方が無い。過疎ボードに一人で書き込み続けながら、初めてレスがついた時の喜び……あれが原点かも。


私は他人よりかなり自己顕示欲は強いと思っているので、yas-toro氏のようにコミュニケーションの楽しさだけで書き続けている訳ではない。尤も氏もコミュニケーションだけで書いているとは言っていない筈だが、それでも氏がコミュニケーションを大事に考えている事は確かだと思う。勿論、私も誰かが私に反応してくれ、それで何かを書いてくれれば嬉しいし、書く気力も湧いてくるものだ。しかし、私は誰も反応してくれなくても、それでもずっと書き続ける事は出来る気はしている。あくまで気がするという事ではあるが。私の気持ちが変化しないとも限らないからな。何時か全く書く気がしなくなる時が来ないとは言えない訳だ。


そんな私でも、ネットを始めた初期の頃はそのコミュニケーションが楽しくて仕方ない時期もあった。私の書いた言葉に誰かが反応して言葉を返してくれ、それにまたレスを返す。言葉と言葉で気持ちのいい触れ合いをする。
忘れないよ。あの頃、私と楽しいひと時を過ごしてくれた人たちの事を。もうその人達は何処に居るのかも分からないが、それでも忘れない。言葉だけで繋がっていたとしても、私の記憶にその人達は存在している。私が死ぬまでは、その人達は私の記憶の中で生き続けるのだ。記憶の中で。


私はそんな記憶を心から愛しく思っている。