寄り添えば寄り添うほど人は傷付け合うものなのかもしれない


「got a feeling|とりもなおさず」を読んで。


 何で、ブログは、感情を増幅してしまうのだろう?


moppara氏のこの問いかけに、コメント欄で答えている方の言葉に頷いた。


書かれたものは時として相手に強く訴えてしまう事もありますね。


shozando氏のこの言葉が全てだと私も思う。ブログが感情を増幅させるのではなく、言葉が感情を増幅させるのだ。この方が言われているように「そのへんの加減が難しいですね。」なのだね。確かにそうだね。


かつて、私が書いていたものも強く強く誰かに訴えかける言葉ばかりが書かれていたと思う。実際、読んだ相手に言われた事もあった。「あなたの文章には力がある」と。それはそれで良い場合もあるが、これが場合によっては凶器に変わる事もある。私が故意に相手を傷付けようと思って言葉を繰り出せばどうなるか、それを私はやってしまった事がある。やってしまって愕然としたものだった。ここまで相手を深く傷つけようとは思ってもみなかったほどに。その時から、私は強く相手に訴えかける文章を書くまいと心に決めた。下手をすれば、私の書く文章で相手を自殺まで追い込む事になってしまいそうだと気付いたから。今は随分と書く文章に感情を込めないようにしているよ。


 実生活では、そんなに、感情の推移に気を遣ってないような気がする一方で、ブログを書く時に、気を遣いすぎている気もするし


実生活では相手の顔も自分の顔も互いに見ることができる。それもあり、相手の表情で傷付けてしまったかもしれないと結構気付く事もある筈だ。それに気付けば修復も即座に出来る。だが、これがネット上に書かれた文章であった場合、自分の書いたもので誰が傷付くかはなかなか想像出来ない。相手の顔が分からないからな。中には接触をしたことのない存在さえも勝手に傷付く場合もある。その相手が「傷付きました」とでも感情に任せ何か言って下さればまだ言い訳をする事も出来るが、ほとんどの人間が書いた相手に何も言わず、傷付いた心で回れ右をしてしまうだろう。そして、自分の領域で愚痴を吐くなり、悪口を書く人もいるかもしれない。しかし、それならまだいい。そういう事も出来ずに精神を蝕んでしまう人もいるだろう。


自分の書いたどういった文章でその様になってしまうか、それは誰にも分からないのだ。それもあり、何も書けなくなってしまった人を何人か私も知っている。その一人が私でもある。だが、私は如何しても書きたい側の人間でもある。だから、自分なりに感情をセーブした文章を書かねばならないと思ったわけだ。
だがしかし、私のこの文章も人によっては充分に感情的な文章を書いていると言う方もいるだろう。それはそうだ。少ないながらも、私の書く物を好むと言って下さる方がいるということは、私の文章がその人の心を動かしたという事だ。相手を傷付けるかもしれない文章とは、心を動かしてしまう文章の事を言うと私は思っている。それはプラス方向だけでなく、マイナス方向にも心を動かしてしまう事も考えられるのだ。プラスだけ動く事は有り得ないと私は考えているので、必ずプラスに動いたらマイナスにも動く事もあると私は思っているよ。
だから、誰の心も動かさない文章を書けば、誰の心も傷付けないとも言えるだろう。矛盾だよな。誰かの心に残りたいと思う私だ。その私が誰をも傷付けないようにしたいと思うことは恐らく無理な話なのだ。
書きたいと思うのなら、誰かの心を傷付けてしまう事もあるのだという事を背負っていかなければならないんだね。


 好きなブロガーに擦り寄っていくのも、不思議な罪悪感が伴う


moppara氏のその罪悪感は、私なりの解釈で思うに、寄り添えば寄り添うほど、言葉交わせば交わすほど、好きな相手を傷付けてしまうからなのではないかな、と。
だが、本当に相手と繋がりたいと思うのなら、傷付け合う事を恐れてはいけないのだろうな。感情のある人間同士なのだから、時として傷付け合ってしまう事もあるだろう。しかし、それでも相手と繋がりたいと思えれば、それは本当の繋がりなのだとは言えないか?