その通り、良い記事にも色々あるのだ


「かめのこだまし…? - b-log ■要 2006-05-12」を読んで。


私が言及した記事「歓楽叶わぬ納骨堂庭園 - 何故かどうしても読みたくなる長文があるのだ」で更に言及された。


良い記事だと思っても読めないのは良い記事ではないのではないかという私の問いに筆者はこう答えてくれた。


 ・これは単に、オレ側に理由。自分の読める状態がそうじゃない時ってのがある。つまりじっくり考えたい記事。今じゃなくってもっと、腰をすえて読みたい記事。


私は読めない精神状態でも読めてしまう記事もあったりするので、読める状態ではないというのは私に限り通用しないのだ。だが、他人にまでもそれは通用しないのだとは言うつもりはない。あくまで私だけの問題なのである。
それでも私が読めない精神状態でも読める記事があるという事は、筆者が言っている「良い記事にもいろいろあるから難しい。」という事と同じ事なのだと思う。良い記事はいろいろあるのだ。そうなのだ。いろいろあるのだ。私にとっては読めてしまうのが私にとっては良い記事であるというだけに過ぎないのだ。


筆者は私の記事を何度も読んで下さった。それに対して頭が下がる思いを持った。私は大抵ざっと読んでざっと記事を書く方なので、それもあって誤読が多いわけなのだが、筆者のように丁寧に記事を読む方を尊敬する。決して「薄っぺらい」わけではないと思うよ。