消したければ消すがいい


「断片部 - 偽堀江ブログ - 俺のサイトは面白いので消します」を読んで。


他の人にとってつまらないからこそ俺にとって価値があるという、あるいは他人にとってはつまらないから他人にとって価値がある(痛い人=俺が他人にとっての精神的安定になるのと同じような感じ。少し俺の脳内老子っぽい)とか、そういう感じだ。


世の中に価値のない物などないという。私もその考えに賛同だ。筆者の言うようにつまならないものが価値がないというわけではなく、つまらないという価値がそれにはあるということなのだね。対象をつまらないと思う為にはそのつまらない物とは逆の面白い物があるという事で、面白い物はつまらない物があるからこそ面白いと思われるのである。そうだとしたら、つまらない物がない世界には面白い物がなくなるという事にも繋がる。それは何も目新しい考えでもなく、誰でもが持っている考えなのだろう。だが、人々は何故かそれを忘れてつまらない物を批判する。如何してなんだろうな。


話は変わるが、筆者が引用している言葉に「人を集めたい」というのがあった。気になったので引用先を読んでみた。それはコメント欄に書かれていたのだが、その中にこういうコメントがあった。


ウェブを巡回している人の多くは「あとで読む」的な発想をしていると思いますが、ワタシは天邪鬼なので「今読まなきゃ読めないサイト」を作るようにしてるのです。検索エンジンでやってくる誰かのために末永く運営することはしませんし、どこかのサイトの過去ログからリンクを辿ってやってきた人も考慮しません。ワタシは『教科書〜』を書いている時に「なんでこのサイトを読んでなかったんだろう」「なんでこのサイトのログを保存しとかなかったんだ」とよく思ったので、そういう気持ちを他の人にも味わわせたいのです。ヒドイですねー。【「このサイトはつまらない」のコメントより】


「今読まなきゃ読めないサイト」というのは確かに人を集めたいと思っている人が陥りやすい手段だ。私が以前通っていたサイトでもやっている人がいたのだが、そのサイトの管理人も「自分のサイトに来てくれないのなら悔しがればいいんだ」と不満を漏らしていたのを思い出す。それはその人がそれだけの自信をサイトに持っていたという事なのだが、得てしてその自信というものは根拠のない自信であり、本人は気付いていない見栄だったりするものなのだ。そして、そういう人ほど「自分なんて全然才能ないのに」と口走る。才能がないと言うのなら才能がないなりに地道に好きなようにやっていけばいいのに、そういう人ほど他人の目が気になるものなのだ。才能がない自分でも誰か一人は認めてくれるのではないかと幻想を抱き、それが叶えられないと途端に「認めてくれない人が悪い」となる。そして「毎日来ないと見れないものを」となっていく。
先程リンクした先のブロガーも「そういう気持ちを他の人にも味わわせたい」と言っている上にそんな自分を「ヒドイ」と評価するということは、強ち私の話したサイトの管理人とそれ程本質が違うわけでもないと私は思うのだが。


そうしたいのならすればいい。私は悔しいとは思わない。書かれた物は奇跡とまではいかないまでも「出会い」であると私は思っているから。今ここで「これ」に出会ったのも運命。取り上げて記事を書くのも運命。出会えない良質なテキストもどこかにあるかもしれないが、今私が出会えないという事も運命。出会うべくして出会う物が私にとっての運命のテキストなのである。だから、消したければ消せばいい。今、私が出会っていないどこかの面白いテキストよ。私は絶対に悔しがるものか。