私が私でいる為に


「Ladder to the Moon - 言霊」を読んで。


言葉に出す、というのは気持ちを形にして目に見えるものにする作業だと思う。
形にせずに曖昧なままにしておく方がいいこともある。
言葉の持つ力に囚われないように。


私もそう思うよ。何某かの事を成そうとする時は、言葉として出す事によって己を鼓舞し、そしてその力で行動を起こす。言葉で自分を縛り操るといった感じを思い浮かべて頂きたい。私はその様にしてここぞという時には動く為に言葉を発している。此処では書かぬが、別の場所では誰かが私のその決意を読み、静かに見守ってくれている筈。その様にして私は動く。それを誰にも否定はさせない。結果的に動けば良いのだからな。
だがしかし、laddertothemoon氏の言われるように、曖昧にして置かなければならない言葉もある。どの様な物でも書くべきだと言ってきた私でも、氏の言われているような他人に対する負の感情はわざわざ言葉にして増幅させるべきではないだろうと思っている。負の感情を否定するわけではない。そういった感情を持ってしまうのは、感情のある人間であるから誰しも持ってしまうものだ。それを否定してしまえば、それはもやは人間とは呼べぬだろう。コメントでも何方かが書いているが、嫌いという感情を押し込めすぎると何時かそれは爆発をしてしまう。だから、中には言葉として吐き出して解消する者もいるのだ。それで、その感情を増大させないのなら言葉に出せばいいと私は思っている。しかし、少なくとも私の場合は、言葉に出す事で感情を増大させてしまうタイプらしいので、なるべく出さぬように今はしている。昔の私は酷かった。自分で自分を憎んでしまうほどに酷かったな。私の発する言葉は他人だけでなく己自身の心までもズタズタにしたものだった。だが、今の私は違う。違うと思っている。それは、私の負の感情をたった一人受け止め浄化してくれる人がいるからだ。私はその人に対してだけ己の一番醜い部分を見せている。その人に話す事で何時の間にか私のその呪わしい感情は浄化していくのだ。他の人では駄目だった。その人だけだったんだ。私の負の感情を弱めてくれる存在は。



私は嘘の中に真実を忍ばせて此処まで辿り着いた。全ては私を生かしてくれる存在の為に。私が私でいる為に。その為だけに私は此処までやって来たのだ。


だから、私は今此処に居る。その人の期待に応えたいが為に。私が私でいる為に。