私を死ぬほど喜ばせるタグが何か分かるか?


「TERRAZINE - ブロガーを死ぬほど喜ばせるタグ」を読んで。


私は言及とは何であるかを知らぬ。それもあり、TERRAZI氏のようにネタ元の記事を大事にしているとは言えないかもしれないよな。失礼な奴だと思われているやもしれぬ。だが、それでも私は今日もこうやって誰かの書いた記事を取り上げては好き勝手ほざいているのだ。


ネタは湧いて出るようなもんじゃない。一人の人間が知恵を絞り、汗をかいて作り上げたものなのだ。


一つ言いたい。湧いて出てくるからネタなんだと思うよ。苦労の末に絞り出して書かれる物はネタではなく作品と呼ぶのではないだろうか。


私の過去ログが読まれているか如何か、アクセス解析が付いていないので私には分からない。だが、読まれているか如何かも余り気にした事は無いな。読んで貰えるように書いているつもりもない。ただ、自身が楽しく記事を書く気持ちだけは誰にも負けていないと思うよ。たとえ、他人にとって面白くなく詰まらない記事だとしても、私は一度たりとも自分の書いた物を面白くないとは思った事も無い。
ネットを面白くするのは確かに自分自身なのだろうが、私は自己中心的な物の考え方をしているので、ネットが面白くなく詰まらなくても構わない。だが、面白くなく詰まらないと思っているのは何時でも私以外の他人だ。私は、何時も「楽しい」と思っている。私は好きなようにこうやって書く事自体が「楽しい」わけであるから、今の状態で満足しているのだ。ネットは面白いよ。どんな物でもな。面白くない、詰まらないと言っている者の気持ちが分からないよ。


ちなみに、私を死ぬほど喜ばせるタグに誰か気付いたとしたら、即刻、相手に愛の告白をするだろうな。(笑)


【追記】TERRAZI氏よりトラックバックを頂く。


その苦労無しに出てきたネタってのってのは、どこから湧いて来るんだろう?


聞かれると思っていたよ。(笑)


少々胡散臭いと思われるかもしれないが、湧くという現象に対する私の考えが、魂から湧くというものだ。そうだな、それは別の言い方で「脊髄反射」であると思っている。何かを見た場合、この場合であれば誰かの書いた記事で突然「これが書きたい」となるのだな。それは脊髄反射と同義だと私は捉えている。確かに氏の言われるようにセンスも必要だろう。そして、そのセンスは一朝一夕では磨かれないのだろう。だが、私はセンスと面白く感じる気持ちは同じとして捉えていない。センスが無くとも面白く感じるものではないかと思うのだが。が、しかし、ここまで書いてみて思ったのだが、ネットを面白く感じていない者がいるとすれば、その者は面白さを感じるセンスが無いとなるか。そして、そういった面白さを感じぬ者はネタが出てこぬと。とすれば、私は私自身をセンスがあると言っているようなものか。成る程、確かに私は傲慢な人間だったな。(笑)
氏の言われる事、何となく納得した気がする。つまり、日々心のアンテナを張り巡らせ、面白さというものに敏感でいることが大切だと言っているのかもしれない、と。とは言え、私のそのアンテナはどうやら人々とは少しばかりズレがあるような気もしないではないが。(笑)


最後に、氏のこの言葉に共感した。


やっぱり日々の積み重ねが、ひらめきに繋がっているのさ。 もちろんそれは苦労だけではなく楽しみもある。悲しみも怒りもあるかもしれない。つまりネタってのは人生そのものなんだよ。


「ネタは人生そのもの」その考えには全面的に賛同する。トラックバックを有難う。今夜は安らかに眠れるよ。私の見る夢もまたネタだからな。今から眠るのが楽しみだ。(笑)